吉井理人×山本昌 新春スペシャル対談(前編)

 2023年から千葉ロッテマリーンズの指揮を執ることになった吉井理人新監督と野球解説者の山本昌氏は、ともに1965年生まれで、83年ドラフトで指名されプロ入りを果たした同級生同士。今回、そんな二人に現役時代の思い出、新生・ロッテが目指すもの、そして"令和の怪物"佐々木朗希について語り合ってもらった。

吉井理人と山本昌が語り合う幻の移籍話「星野監督からマサより給...の画像はこちら >>

1983年のドラフトでともにプロ入りを果たした吉井理人氏(写真左)と山本昌氏

【箕島の吉井は有名だった】

── お二人は、ともに1965年生まれで、1984年プロ入りの「同期」ですが、アマチュア時代からすでに接点や交流はあったのですか?

山本 僕は全然知名度はなかったですけど、吉井監督はなんたって、箕島高校ですから、僕は当時からすでに「箕島高校には吉井という、いいピッチャーがいる」ということは知っていたんですよ、当然。

吉井 僕は和歌山の田舎者なんで、どんな情報も入ってこないようなところにいたから、山本さんに限らず、そもそも誰も知らなかったです。

山本 僕はどっちかというと『報知高校野球』とか、高校野球の専門誌をすごく熱心に読んでいたタイプでした。そもそも高校野球マニアだったから、吉井監督が入学してすぐ投げ始めていたのも知っていたし、何と言っても「あの箕島」ですからね(笑)。

吉井 僕は本当に誰も知らなかったな。1学年上の早実の荒木大輔さんが有名やったから、せいぜい荒木さんを知っていたぐらいで、あとは高校野球の選手で知っている人はいなかったです。

── 吉井さんが山本昌さんを認識したのはいつ頃になるんですか?

吉井 プロ野球の世界に入って、ナゴヤ球場での二軍の試合ですね。

この時、山本さんはベンチ裏でスコアをつけていて、そこが初めてかな?

山本 僕は、当時のドラフトのことまで覚えていますよ。吉井監督が入った年の近鉄バファローズは、ドラフト5位までが高校生なんだよね。1位・小野(和義/創価高校)、2位・吉井、3位・村上(隆行/大牟田高校)、4位・光山(英和/上宮高校)、5位・安達(俊也/愛工大名電高校)と、みんな高校生。よく覚えているでしょ。本当に野球ファンだったから(笑)。でも、みんなすごい人ばっかりでね。

吉井 小野はすぐ一軍に上がったよね、1年目から。僕はまったく一軍で活躍するイメージが湧いていなかったので、「とっとと辞めて違うことしよう」って考えたんですね。でも、日米野球で大リーグを初めて見て、「もうちょっと真面目にやろう」って。そこからかな、変わったのが。それが3年目ぐらいの時だったかな。

山本 その頃は、パ・リーグの方が同級生で早く台頭してきたピッチャーが多かったんだよね。

(渡辺)久信とか、星野伸之とか小野和義、加藤伸一とか。このあたりが先にバーッて出ていってね。吉井監督がどう思っていたのかはわからないけど、「オレは出遅れているな」っていうのはすごく感じましたね。僕がプロ初勝利した時、久信はもう40近く勝っていたんで、僕はかなり出遅れていましたね。

【巨人だけには行くなよ】

── リーグは違いましたけれど、それぞれのチームで活躍し始めた頃、お互いのことを「どういうピッチャーだ」と評価していましたか?

山本 吉井監督は、高校時代に甲子園でも投げていたし、「ボールの力もあってコントロールがいいな」っていう認識でしたよね。実際にピッチングをよく見るようになったのは吉井監督がスワローズに移籍した95年からですね。同一リーグになってからは、「やっぱり、すごいな」っていうことをすごく感じましたね。

吉井 じつは97年のオフ、フリーエージェント(FA)でメジャーに行く時にドラゴンズからも誘いがあったんですよ。当時監督だった星野(仙一)さんに、「おまえ、巨人だけは行くなよ」と脅されましたね(笑)。で、僕が「メジャーに行きます」って言ったら、すごい応援してくれてね。その時、星野さんに「でも、うちに来たとしてもマサ(山本昌)よりは給料出せないけどな」って言われたんですよ。「あぁ、中日でも大エースなんだろうな」って、そういう印象はありましたね。

山本 へぇ、そんなことあったの? 知らなかった。

僕もFAの権利をとったけど、星野監督が怖くて出られなかったな(笑)。ちょうど97年に最初のFA権をとったんですけど、翌98年からメジャーリーグでデビルレイズ(現・レイズ)とダイヤモンドバックスが新設されることになって、両チームから誘いがあったんです。

吉井 えっ、そうだったの? もし実現していたら、同じタイミングで、アメリカでプレーすることになっていたんだ。

山本 あの時は「どうしようかなぁ」と思ってね。非公式だったけど、ドラゴンズに所属していた外国人選手を通じて、金額の提示も受けて、「えぇ、そんなもらえるの、どうしよう?」と思っていたけども、星野監督の手前できなかった(笑)。だから、吉井監督のアメリカでの活躍はすごくうれしかったですよ。

【現役時代の思い出】

山本 あと、一緒にタイトルを争ったこともあったよね。97年だったかな、防御率のタイトル争いをしましたよね。ドラゴンズの最終戦が終わった時点で僕がトップだったんです。その時にヤクルトの吉井投手、田畑(一也)投手、そして広島の大野(豊)さんの4人で争っていたんだよね。

吉井 それでヤクルトと広島の直接対決があって、「もう勝負決めにいったろ」と思って先発したら、広島打線につかまってしまって(笑)。「これ以上、点をとられたら防御率が3点台になっちゃうから、もうやめとけ」ってピッチングコーチに引きずり降ろされたんですけども。それ、よく覚えてるわ。

山本 それで、次に田畑くんがいったんだよね。でも、田畑くんも点をとられて、大野さんが3イニングぐらい投げて、逆転した。それまで僕は1位で終わっていたんだけども、大野さんに抜かれて、結局2位に終わったんですよ。

吉井 現役時代の晩年に、僕ら40歳を超えて、ナゴヤ球場で真夏に投げ合ったこともあったよね。

山本 気温が30度を超えてね。僕ら2人で投げ合うことになったんだけど、試合前に「場内を沸かすために、お互いにフルスイングで三振しようや」って話したよね(笑)。ものすごく暑いなかで、吉井さんも僕もバットとボールがこんなに離れているスイングで「ブーン」って三振したんだよね。吉井監督がフルスイングしてくれて、思わずマウンド上で笑っちゃった(笑)。

吉井 あの日は、かなりお客さん観に来てくれていたよね。アメリカから日本に戻ってきて、オリックスに復帰してからの二軍戦でね。当時の二軍はサーパスだったんですけどね。

── 吉井さんは2023年から千葉ロッテマリーンズ監督に就任が決まりました。あらためて同世代として、山本昌さんから吉井監督へのエールをいただけますか?

山本 めっちゃ応援しますよ。普段から競馬とか、共通の趣味があって普通に話をする仲なんだけど、吉井監督は、僕にない野球理論や指導術を持っていますからね。現役を引退してから、僕はまだ一度もユニフォームを着ていないけど、吉井監督はすでに各球団で、しっかりピッチングコーチとして実績を残した中での監督就任になるので、絶対に頑張ってほしいな。また、いいチームに就任したなって思いますよ。ファンも多いし、若い選手も伸びてきているチームなので、ぜひ、吉井監督の下で日本一になってほしいです。

吉井 目標はもちろん日本一を目指してやるので、「そのためにはどうしたらいいか?」って、今、一生懸命考えています。どうしても今までのやり方にとらわれて、今までと同じ練習方法や戦術を採り入れがちだけど、やっぱり「何か変わったことをやらなきゃいけないな」と思っています。2022年シーズン、ピッチングコーディネーターとしてアメリカに勉強に行ったけど、20年前に自分がメジャーにいた頃とは戦術も変わっていたし、日本野球も全然変わっているので、そのあたりをしっかり採り入れていきたいと思っています。

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吉井理人(よしい・まさと)/1965年、和歌山県生まれ。箕島高時代は甲子園に2度出場し、83年ドラフト2位で近鉄に入団。4年目の87年にプロ初勝利を飾り、5年目はリリーフとして50試合に登板して10勝2敗24セーブの活躍を見せる。95年の開幕直前にトレードでヤクルトに移籍。先発に転向して3年連続2ケタ勝利を挙げる。97年オフにFAでメッツに移籍。その後、ロッキーズ、エクスポズでもプレーし、メジャー通算32勝をマーク。帰国後はオリックス、ロッテでプレーし、07年に現役を引退。引退後は日本ハム、ソフトバンク、ロッテでコーチを務め、23年からロッテの監督を務める。

山本昌(やまもと・まさ)/1965年、神奈川県生まれ。日大藤沢高から83年ドラフト5位で中日に入団。5年目のシーズン終盤に5勝を挙げブレイク。90年には自身初の2ケタ勝利となる10勝をマーク。その後も中日のエースとして活躍し、最多勝3回(93年、94年、97年)、沢村賞1回(94年)など数々のタイトルを獲得。06年には41歳1カ月でのノーヒット・ノーランを達成し、14年には49歳0カ月の勝利など、次々と最年長記録を打ち立てた。50歳の15年に現役を引退。現在は野球解説者として活躍中。