根本陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第10回

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証言者・衣笠祥雄(3)

 1967年オフ、解任された長谷川良平監督のあとを継ぎ、広島の監督に就任した根本陸夫。監督になってまず行なったのが戦力補強だった。

特に根本が球団に頼み込んでまで獲得したのが山内一弘だった。かつて首位打者、本塁打王、打点王と数々のタイトルを獲得した山内だったが、この時すでに36歳。選手としてのピークは過ぎていた。しかし根本の狙いは、広島の若手たちに山内の姿を見せることだった。その効果は結果となって表れ、入団4年目(当時)の衣笠祥雄は127試合に出場し、打率.276、21本塁打、58打点の活躍を見せた。そしてチームも球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。

若手の手本となるプロ野球の成功者を獲得

 広島の監督就任が決まった後、根本が真っ先に着手したのが戦力補強だった。阪神からベテラン強打者の山内一弘、守備力に長けた三塁手の朝井茂治を獲得した。

 山内は毎日、大毎(現・ロッテ)時代に首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回のタイトルを獲得した超大物。だが、1964年に小山正明との"世紀のトレード"で阪神に移籍してからは、タイトルはなく、打率も2割5分前後だった。それでも1967年に通算2000本安打を達成するなど、カープの選手たちにとって「お手本」だったと衣笠は言う。

「プロ野球で成功した方というのは、どういう考え、どんな生活、どういう練習をされているのか。

『それをあなたたちは見なさい』ということで、根本さんが球団に頼んで山内さんを獲得したと思います。そういう意味では、根本さんの手法というのはどの球団に行かれても同じだったのですね。西武の時も、ダイエー(現・ソフトバンク)の時も一緒。若い選手たちにプロ野球の世界で成功した人を見せましたから」

 1979年の西武監督就任時には野村克也田淵幸一を獲得。1993年にダイエーの監督に就任した時は、西武黄金期を築いた秋山幸二石毛宏典工藤公康らが次々と加入した。そうした補強策の原点が山内だった。

 その山内を、根本は春季キャンプから"有効活用"した。キャンプ中、衣笠をはじめとした若い選手を何度も集め、その場に山内を連れてきては、「君たちがこの選手を超えないと、カープは優勝できない」と言い続けた。

「山内さんはご自身の練習をやるだけでしたが、我々よりはるかに練習されていました。いいお手本、いい教材を目の前に置いていただいたと、今でも思います。我々からしたら、2000試合近く出場されて、2000本安打も打っておられて、すべてのタイトルを獲られた大選手が『まだこんなに練習するんだ』というのは本当に驚きでした。特に、これだけの成績を残された方がこんなに頑張るってことは、バッティングってそんなに難しいものなのかと。

それをキャンプで見せてもらったのは、本当にいい勉強になりました」

 必然的にキャンプでの練習は激しく、厳しいものになった。根本はまず、選手たちが猛練習に耐えられるだけの体力をつけるために、1時間のランニング、長い時間をかけてのキャッチボールを課した。「技術の前に必要なのは体力だ。まずは体力をつけてから、次のステップにいく」というのが、根本の考えだった。

 ランニングに関しては、広島大学で体育学を専攻していた川村毅教授を呼び寄せ、指導にあたらせた。いわば"陸上競技の専門家"だった川村教授は、その頃主流だったサーキットトレーニングを採り入れ、徹底的に選手たちを鍛えた。

 そもそも、分野の違う人材がプロ野球の選手を指導すること自体、珍しかった。幅広い人脈を持つ根本らしい、先進的な取り組みだったといえる。

 一方で、トレーナーの矢作義孝を近鉄から呼び寄せると、選手たちの健康管理を一任した。衣笠によれば、キャンプ中も門限の厳守が通達され、食事も改善。また、アルコールや長時間座る麻雀も禁止されたという。

若手らの活躍で巨人とも互角の勝負を演じる

 広島では初の"外様監督"としてキャンプ中から注目された根本は、マスコミに「カーブの若親分」と名づけられた。

戦後の闇市の時代、硬派学生として東京・渋谷で暴れ回り、界隈のヤクザに一目も二目も置かれる存在だったという「経歴」も、そんなニックネームにつながっていた。

 そして幕が明けた1968年シーズン。新生カープは4月を10勝6敗1分と好スタートを切った。開幕戦で5番に抜擢され、3番・山内、4番・山本一義とともにクリーンアップを形成した衣笠は語る。

「開幕は岡山での阪神戦、先発は村山実さんでした。じつは、プロ初本塁打は村山さんから打ったこともあって、期待していたんです。1本ぐらい打たせてくれないかなって(笑)。まあホント、若いし、甘い頃ですよ。結果、4打数ノーヒットで次の試合は出させてもらえませんでした。それでも根本さんに期待してもらって、チャンスをたくさんいただいた中で必死にやりました」

 チームは4月下旬から7連敗を喫するも、その後5連勝と立ち直り、6月に入ると巨人を3タテするなど勢いづいて再び7連勝を記録。ついに、セ・リーグの首位に立つ。この年、揃って20勝を挙げることになる安仁屋宗八、外木場義郎の両右腕の活躍が大きく、巨人とも互角の勝負を演じた。しかし衣笠には「強いチームになった」という実感はなかったという。

「悲しいですけど、当時の広島は巨人に勝つことで存在感が生まれるという、まだそういう時期でした。だから、トータルの戦力を考えた時は、優勝を狙う云々という時期ではなかったと思います。要するに、テレビの全国放送がある巨人戦で頑張って、広島というチームをアピールするという段階。それは弱さの裏返しであって、そういう状態ではペナントは獲れないです」

 弱さの表れか、7月にはオールスターをはさんで12連敗し、4位に下降。それでも最終的には3位に浮上し、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。

 前年まで年間30前後だった衣笠の試合出場は127に急増。打率は2割7分6厘、ホームランは21本をマークし、打点は58と急成長を遂げた。なにより、いきなり20本の大台を超えたのは驚異的だ。

「結局、目標としては20本だったんです。根本さんに『お前の売り物は何だ?』と言われてから、『20本のホームランを打つことだ』と自分なりに考えました。20本をクリアすれば試合に出してもらえるんじゃないか、というところまで追い込みました。いつの間にか、僕の頭の中がそうなるように、根本さんに引っ張られていたわけです。それで何とか、及第点はもらえる数字は残ったかなと。だから、『20本打てたから嬉しい』ではなくて、『やっとクリアできた』という印象しかなかったです」

 明けて69年の初頭。雑誌『潮』3月号に根本と松田恒次オーナー(誌面上の肩書きは東洋工業取締役社長)の対談記事が掲載された。当初は「130試合、全部負けてもいいんだ、将来につながる強いチームをつくってくれ。5年後には天下を取る」と言っていたオーナーだが、実際にはもっと高い目標を設定していたことが、この記事で明かされた。冒頭、ふたりはこんな対話をしている。

根本 監督になって1年目に最下位から3位になったということで、いろいろ言われるけど、社長から出された目標は「優勝を狙って出発せい」ということだった。

松田 そら、監督としてチームをあずかった以上、やっぱり優勝せにゃいかん。

根本 それで「1年目のいろんな態勢を、基本的なものにのっとって組んでみい」ということで、やってみた。その結果が3位。しかし、あくまでも優勝を目標に出発したので、去年は地ならしみたいなものだった。それが、たままた3位といういい結果が出たけど、本当の出発は今年だと思っています。

 根本が「本当の出発」と位置づけた1969年、はたしてその結果は......。

(=敬称略)

【人物紹介】

根本陸夫...1926年11月20日、茨城県生まれ。52年に近鉄に入団し、57年に現役を引退。引退後は同球団のスカウト、コーチとして活躍し、68年には広島の監督を務める。監督就任1年目に球団初のAクラス入りを果たすが、72年に成績不振により退団。その後、クラウンライター(のちの西武)、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督、そして事実上GMとしてチームを強化。ドラフトやトレードで辣腕をふるい、「球界の寝業師」の異名をとった。1999年4月30日、心筋梗塞により72歳で死去した。

衣笠祥雄...1947年1月18日、京都府生まれ。65年に平安高から広島に入団。68年から一軍に定着し、75年にはチームの主力として初優勝に貢献。その後も広島の黄金期を支えた。また、2215試合連続出場の世界記録を持ち、国民栄誉賞も受賞。87年に現役を引退。通算成績は2543安打、504本塁打、1448打点。

長谷川良平...1930年3月25日、愛知県生まれ。半田商工学校(現・半田商業)から社会人野球を経て、50年に広島カープ設立とともにテスト生として入団。1年目に15勝を挙げると、以降8年連続2ケタ勝利をマーク。55年には30勝を挙げ最多勝に輝いた。63年に現役を引退。通算621試合に登板し、197勝203敗。

山内一弘...1932年5月1日、愛知県生まれ。社会人の川島紡績から52年に毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団。右の強打者として知られ、首位打者1回(57年)、本塁打王2回(59年、60年)、打点王4回(54年、55年、60年、61年)を獲得した。63年オフに小山正明とのトレードで阪神へ移籍。67年に史上2人目となる2000本安打を達成した。68年に広島に移籍し、70年限りで現役を引退した。通算成績は2271安打、396本塁打、1286打点。

朝井茂治...1941年5月11日、静岡県生まれ。静岡商時代は夏の甲子園に出場し、高校日本代表の4番を務めた。60年に大阪タイガース(現・阪神タイガース)に入団。64年からサードのレギュラーを獲得。68年に広島に移籍し、70年に現役を引退した。通算成績は579安打、57本塁打、214打点。

小山正明...1934年7月28日、兵庫県生まれ。高砂高3年秋の52年に大阪タイガース(現・阪神タイガース)の入団テストを受け、打撃投手兼テスト生として入団。プロ入り後は抜群の制球力から"投げる精密機械"と呼ばれ、62年に27勝をマークし、沢村賞を獲得。64年に山内一弘との"世紀のトレード"で東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に移籍し、その年30勝を挙げ最多勝に輝いた。73年に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に移籍し、その年限りで引退。通算856試合に登板し、320勝232敗。

野村克也...1935年6月29日、京都府生まれ。峰山高から54年にテスト生として南海に入団。入団3年目の1956年からレギュラーに定着すると、現役27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王などその強打で数々の記録を打ち立て、不動の正捕手として南海の黄金時代を支えた。その後、ロッテ、西武でもプレイし、80年に現役を引退。引退後はヤクルトの監督として3度の日本一を経験。阪神、楽天でも監督を務めた。通算成績は2901安打、657本塁打、1988打点。

田淵幸一...1946年9月24日、東京都生まれ。法政一高から法政大を経て、68年ドラフト1位で阪神に入団。大型捕手として注目され、1年目からレギュラーを獲得。22本塁打を放ち、捕手として初めて新人王に輝いた。75年には43本塁打を放ち本塁打王のタイトルを獲得。78年オフ、トレードで西武に移籍。西武でも主砲として活躍し、82、83年は日本一に貢献。84年に現役を引退した。通算成績は1532安打、474本塁打、1135打点。

秋山幸二...1962年4月6日、熊本県生まれ。八代高から80年にドラフト外で西武に入団。2年目の82年にイースタンリーグの本塁打王を獲得。翌年から野球留学でアメリカに渡るなど英才教育を受ける。85年にレギュラーを獲得し、この年40本塁打をマーク。その後も西武の主軸として黄金期を支えた。94年にトレードでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍。2000年に通算2000本安打を達成した。02年に現役を引退。通算成績は2157安打、437本塁打、1312打点。

石毛宏典...1956年9月22日、千葉県生まれ。市立銚子高から駒沢大に進み、プリンスホテルを経て、80年ドラフト1位で西武に入団。1年目からショートのレギュラーを獲得し、打率.311をマークして新人王に輝く。その後もチームリーダーとして西武黄金期を支える。95年にFA権を行使してダイエー(現・ソフトバンク)に移籍。96年に現役を引退した。通算成績は1833安打、236本塁打、847打点。

工藤公康...1963年5月5日、愛知県生まれ。名古屋電気高(現・愛工大名電)時代の3年夏に甲子園に出場し、2回戦の長崎西高戦で史上18人目のノーヒット・ノーランを達成。81年ドラフトで西武が6位で指名し入団。1年目から登板し、85年には最優秀防御率のタイトルを獲得。西武のエースとして一時代を築き、94年オフにFAでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍。その後も巨人、横浜(現・横浜DeNA)でプレイし、2010年に西武に復帰。しかし、1年で戦力外通告を受け退団。西武退団後も現役続行を希望したが、獲得する球団は現れず、11年に引退を表明。通算635試合に登板し、224勝142敗3S。

山本一義...1938年7月22日、広島県生まれ。広島商から法政大を経て、61年に広島に入団。63年にレギュラーを獲得すると、チームの4番打者として活躍。タイトルこそなかったが、10年連続2ケタ本塁打をマークするなど、低迷期の広島を支えた。そして75年にチームの初優勝を見届け、現役を引退。通算成績は1308安打、171本塁打、655打点。

安仁屋宗八...1944年8月17日、沖縄県生まれ。沖縄高(現・沖縄尚学)から琉球煙草を経て、64年に広島に入団。沖縄県生まれ初のプロ野球選手として注目された。右の横手投げからシュート、スライダーを得意とし、68年には23勝を挙げた。74年オフにトレードで阪神に移籍し、75年に最優秀防御率のタイトルを獲得。79年オフに金銭トレードで広島に復帰し、81年に現役を引退。通算655試合に登板し、119勝124敗。

外木場義郎...1945年6月1日、鹿児島県生まれ。出水高から電電九州を経て65年に広島に入団。プロ2度目の先発(阪神戦)でノーヒット・ノーランを達成。68年には年間21勝を挙げ、9月14日の大洋戦では完全試合を達成した。さらに72年4月29日の巨人戦でもノーヒット・ノーランを成し遂げた。79年に現役を引退。通算445試合に登板し、131勝138敗。

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