斎藤佑樹×香西宏昭 新春スペシャル同級生対談(前編)

 野球界を代表する人気選手として、高校・大学・プロと一線で活躍を続けてきた斎藤佑樹。10代から日本車いすバスケ界のトップとして、ドイツリーグやパラリンピックで世界に挑み続けてきた香西宏昭。

トップアスリートとして世代を引っ張る存在であり続けた、1988年生まれの同級生2人がついに邂逅──。

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ともに1988年生まれの斎藤佑樹(写真左)と香西宏昭

【東京パラリンピック後の変化】

斎藤 香西選手は7月14日生まれ、僕は6月6日。誕生日も近いですね。野球がお好きだとうかがっています。

香西 好きですね。僕は先天的な障害なんですけど、子どもの頃は遊びで、車いすのまま野球をしていました。巨人の松井秀喜さんのファンだったので、車いすバスケでは背番号55をつけさせてもらっています。

斎藤 55......たしかに55番っぽいですよね。

香西 背中がでかいから大きな数字がいいらしいです(笑)。

斎藤 香西選手は高校3年で車いすバスケの日本選手権のMVPを獲ったそうですね。

香西 はい。それが5月です。アメリカ留学を控えていた夏休みはテレビで甲子園を見ていましたよ。

斎藤さんの活躍、甲子園制覇はすごかった。でも、「こんなに騒がれて大変じゃないかな」とも思いました。

斎藤 あの夏の甲子園、ハンカチ王子と騒がれました。優勝して、早稲田大学、そして北海道日本ハムファイターズで11年プロ生活を送ったのですが、あの当時はやっぱり、ちゃんと野球選手として見てほしいという思いはありましたよね。香西選手は、東京パラリンピックで銀メダルを獲って、何か変わりましたか?

香西 車いすバスケの知名度は格段に上がりました。

斎藤 香西選手も東京パラリンピック以降、注目されるようになりましたよね。

香西 たまに、街で声をかけられるようになりましたね。あと、Twitterやインスタのフォロワー数が激増して、今、ちょっとずつ減ってきてます(笑)。

斎藤 それ、ちゃんと継続して発信してますか(笑)。

香西 苦手なんですよ。ご飯とバスケと睡眠......そんな人様に見せるような生活もしてないしって。でも常々、愛想はよくしとこうって心がけています。

僕、もともとは怒りっぽいし、イラつきやすいんですよ。

斎藤 えっ!? こんな優しそうな感じなのに。

香西 2016年のリオパラリンピックの時はメンタルの起伏が激しくて、それをコントロールできなくて、すべてうまくいかなかったんです。それで東京に向けてメンタルトレーニングを始めました。

斎藤 怒る原因は何なんですか?

香西 何でもです(笑)。自分のミス、周りのミスでイラつくし、審判にも......。

それで、何かに動かされてしまう自分の感情が邪魔でしょうがないと感じて、動かない心、不動心を持ちたいと考えるようになりました。メンタルトレーニングでは、毎日、自分に何が起きて、それに対して感情がどう動いたかを書き出していくってことをやりました。自分のメンタルを理解するほど、クズな自分、ダメな自分が見えてきました。

斎藤 書いて初めてわかったんですか。

香西 そう、客観的に。自分がなりたくないほうになってたなと、すごい落ち込んだ時期もありました。

斎藤 僕もマウンドでは感情が出るタイプでした。怒りっぽくはないけど、打たれたらすごく悔しいし、落ち込むことも多かったんですよ。

【自分のやるべきことをやる】

香西 斎藤さんは、どうやってたんですか?

斎藤 その感情は次の日には必要ない、ちゃんと次に切り替えていかなきゃいけないって考えて、僕も書き出すようにしたんです。それで自分自身がいろいろ明確になってきて、最終的には(自分で)コントロールできることだけに集中しようとするようになりました。コントロールできないことは「関係ないや!」って割り切れるようになってからは、すごく気持ちがラクになりましたね。

香西 それ、わかります。僕もそんな感じです。

斎藤 メンタルの持ち方を変えることで、それが結果として試合に出たと感じた時はありますか?

【異種アスリート対談】斎藤佑樹×車いすバスケ香西宏昭が語り合う「闘うメンタルのつくり方」

 

香西 一番はやっぱり東京パラリンピックですかね。割り切りみたいなところは、僕はとくにオフェンスで感じていたんですよ。いくら練習しても、そのとおりにいくとは限らないから。

斎藤 運の部分もある?

香西 そうです。ゴールに弾かれることもあるし。だからシュートを打った瞬間、結果はどうであれ、すぐ次のディフェンスにいくと心がけていたんですよ。日本代表はオールコートディフェンスが武器のチームでしたから、まずは攻守の切り替えが大切なんです。そこに集中したら、東京パラリンピックでは自分のミスも周りのミスも審判の笛もどうでもよかった。「よし、次いこう!」って気持ちになれたんですよ。

斎藤 結果に左右されないで、自分のやるべきことをやる......。

香西 そうです。自分もそうだったし、チームとしてもみんな同じ方向を向いていたんですよ。

斎藤 香西選手が苦労してたどり着いた境地に、チームのみんなは平然とできていたということなんですか?

香西 チームでもメンタルトレーニングに取り組んでいたので、その成果でもありますけど、みんなすごいなと思いながらやってました、僕は(笑)。

斎藤 香西選手をはじめ中心選手ができていたから、周囲が影響を受けたところもあるでしょうね。

香西 東京パラリンピックでは日本代表が初めて大きな大会で決勝まで勝ち進みました。僕自身もそこに身を置いて初めて、これが波に乗るということなのかって実感しました。ずっと勝てなかった日本代表なのに、みんな勝つのが当たり前って感じになっていましたから。

斎藤 それ面白いですね。

香西 斎藤さんも甲子園はそうだったんじゃないですか? 淡々と投げているように見えましたよ。

斎藤 淡々とできるって、ある程度の境地にいないと難しいじゃないですか。僕らの場合は準々決勝で苦しい試合を勝ちきって、それをきっかけにポーンといった感じでしたね。

香西 なるほど。

斎藤 淡々とできる時って、自分のパフォーマンスの状態がいい時だと思うんです。メンタルだけではどうにもできない場合もあって、僕は、メンタルには達観していたつもりだったけど、ケガもあって技術と体力のパフォーマンスがメンタルに追いつけなかった。プロではそこが苦しかったですね。

香西 僕もケガはいろいろとやってきました。期待されたところでパフォーマンスを出しきれない苦しみはすごくわかります。

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構成・文●市川光治(光スタジオ)

撮影・文●名古桂士、伊藤真吾(X-1)

斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日生まれ。群馬県出身。早稲田実業高のエースとして、2006年夏の甲子園において「ハンカチ王子」フィーバーを巻き起こし、全国制覇。早稲田大進学後も東京六大学リーグで活躍し、2010年にドラフト1位指名で北海道日本ハムファイターズに入団。1年目から6勝を上げ、2年目は開幕投手も務めた。ケガに悩まされて2021年シーズンで引退。株式会社斎藤佑樹を立ち上げて、野球の未来づくりにつながるさまざまな活動を開始した。

香西宏昭(こうざい・ひろあき)/1988年7月14日生まれ。千葉県出身。NO EXCUSE所属。小6で車いすバスケを始める。高校生の時に千葉ホークスの中心選手として日本選手権で優勝し、卒業後に渡米。イリノイ大学では2年連続全米大学リーグシーズンMVPを受賞。卒業後はドイツでプロ選手のキャリアを重ね、昨シーズンはドイツリーグ優勝。パラリンピックは4大会連続出場。東京大会は3ポイント成功数、成功率ともに1位で銀メダル獲得に貢献。昨年から拠点を日本に移して活動開始。