佐々木信也インタビュー(前編)

 1976年にスタートしたフジテレビの『プロ野球ニュース』の初代キャスターとしてお茶の間の人気者となった佐々木信也氏。すっかりテレビのイメージが強いが、高校時代は夏の甲子園で全国制覇を果たし、慶應大では主将として活躍。

卒業後、高橋ユニオンズに入団し1年目からシーズン180安打を放ち、ベストナインを獲得。プレーヤーとしてたしかな実績を残したが、プロ4年目のシーズン後に突然の戦力外通告を受け現役を引退するなど、波乱に満ちている。今年90歳を迎える佐々木信也氏に波乱の人生を振り返ってもらった。

父の蒸発、まさかのプロ入り、新人記録を作るも26歳で戦力外…...の画像はこちら >>

慶應大から高橋ユニオンズに入団した佐々木信也氏

【湘南高校1年夏に全国制覇】

── 湘南高校1年生の時に、甲子園で全国優勝。慶應大学では主将として「慶早戦」で大活躍。アマチュア時代から華々しい成績を残していますね。

佐々木 1949(昭和24)年夏の甲子園の時は、私はまだ15歳でした。

準々決勝でサヨナラヒットを打って、決勝戦では2本のヒット。我ながら、いい活躍をしたと思いますよ。大学時代は、のちにジャイアンツのエースとなる藤田元司とチームメイトでした。大学4年間、テストの時にはいつも私の答えをカンニングさせてあげました。彼が無事に卒業できたのは私のおかげです(笑)。

── 大学卒業後は、社会人野球に進む予定だったと聞きました。

しかし、1956年に高橋ユニオンズに入団します。この経緯を教えてください。

佐々木 慶應大学のキャプテンと言っても、私自身はそれほどたいした選手ではなかったので、自分でも「プロは無理だろうな」と思っていました。大学4年の秋、20社ぐらいから就職の話をいただいて、北海道にある東洋高圧という会社の内定をもらいました。化学肥料の会社なんだけど、社会人野球選手としてこの会社にお世話になるつもりでした。

── ところが、一転してプロ入り。

何があったのですか?

佐々木 じつは当時、佐々木家の家計は火の車でした。高校1年の秋、父が突然蒸発したんです。父は湘南高校野球部監督で、この年の夏に全国優勝したばかりなのに、突然いなくなってしまった。詳しい事情はわからないけど、女性問題だったようです。我が家は男ばかりの4人兄弟で、私は上から2番目。大学にも行かせてもらったことだし、「社会人として家計を支えよう」と考えていたところ、母が高橋ユニオンズのスカウトに篭絡(ろうらく)されたんです。

── お母さまがスカウトに説得された?

佐々木 私自身は、プロでやれる自信もなかったし、東洋高圧への就職が決まっていたから、プロ入りはお断りするつもりで、スカウトから逃げ回っていたんです。でも、母がスカウトの方と仲良くなって、「信也、一度でいいからきちんと話を聞きなさい」ということになって......。まさに、「将を射んと欲すればまず馬を射よ」です(笑)。

── 契約金は350万円、月給は8万円。すぐに川崎に自宅を購入したそうですね。

佐々木 私の知らないうちに母が勝手に物件を見つけてきたんです(笑)。

70万円だったか、80万円だったと思うけど、川崎駅北側の40坪ぐらいの小さな家でした。ちょうど、川崎球場の反対側で、高橋ユニオンズの本拠地でもあったので、球場には自転車で通っていました。もしもうちが裕福だったら、私はプロには行っていなかったと思いますね。

【新人最多のシーズン180安打】

── さて、当時の高橋ユニオンズはチーム創設3年目。「日本のビール王」と呼ばれた高橋龍太郎オーナーの個人所有チームでした。経営面は苦しく、有望選手も集められない状態で、チーム成績も低迷していました。

佐々木 たしかにオンボロチームでしたね(苦笑)。

みんないい人ばかりなんだけど、個々の能力はあまり高くなかったし、チームとしても弱かった。優勝争いしているチームだったらなかなか出番も与えられなかったと思うけど、高橋ユニオンズだったから、1年目からたくさんチャンスをもらってね。オープン戦で3割6分くらい打ったのかな? それでペナントレースが始まってからも試合に出るようになって。

── 当時の記事を読むと「新人・佐々木二塁手の加入で、ようやくダブルプレーが可能になった」というものもありました(苦笑)。

佐々木 もう、本当にそのレベル。当時は西鉄ライオンズが強かったんだけど、豊田泰光は「弱すぎて同情するからユニオンズとは戦いたくない」と言っていましたね。私がヒットを打ってセカンドに到達すると、「信ちゃん、よう打った!」って褒めてくれる(笑)。中西太の弾丸ライナーのホームランもすごすぎて、つい見とれてしまうぐらい。球場外の照明灯に「明治チョコレート」という縦書きの看板があったんだけど、中西のライナーは「チ」に向かって消えていった。あんなにすごいホームランはその後も見なかったな。

── プロ1年目は、新人選手として史上初となる全154試合フルイニング出場を果たし、リーグ最多の180安打を放つ大活躍を見せました。

佐々木 いいスタートダッシュとなったけど、その後がいろいろあってね(苦笑)。プロ1年目のオフ、いきなり高橋ユニオンズの解散が決まったんです。プロ2年目の57年に大映スターズに買収されて大映ユニオンズになって、プロ3年目の58年には毎日オリオンズと対等合併して大毎オリオンズに。プロ3年間で3度も経営母体が変わり、チーム名も変わってね。あの頃のパ・リーグは本当に混沌としていましたね。

【26歳で突然の戦力外通告】

── そして、プロ4年目を終えた59年オフ、突然の現役引退となりました。当時、佐々木さんはまだ26歳になったばかりでした。出場機会が減っていたとはいえ、まだまだ戦力として活躍できた気もします。一体、何があったのですか?

佐々木 私にとっても突然のことなので、ハッキリしたことはわからないけど、翌60年から監督になることが決まっていた西本幸雄さんが「背の低い選手はいらない」という考えだったこと。そして、私と似たようなタイプの内野手が多かったことが理由のようです。西本さんが「このなかで引退しても食いっぱぐれのなさそうな選手は誰だ?」とスタッフに聞いたら、「佐々木です」となって決まったと聞いたこともありますけどね(苦笑)。

── 当時、「巨人移籍」の話もあったと聞きました。

佐々木 当時のジャイアンツの監督は慶應の先輩である水原(茂)さんでした。いきなり水原さんから連絡があって、「よかったらうちに来ないか?」と誘われました。当時、「ファースト・王貞治、サード・長嶋茂雄、ショート・広岡達朗」というそうそうたる布陣でしたから、「このなかで自分もプレーできるのか!」と興奮していたけど、結局この話は流れてしまいました。

── どうしてですか?

佐々木 ジャイアンツの親会社である読売新聞社と、大毎の親会社である毎日新聞社との問題だったようです。読売サイドとしては、「どうして毎日をクビになった選手をうちで引き受けなければいけないのだ」ということになったみたいで......。水原さんから「力になれずにすまん」と言われたけど、先輩に迷惑をかけるわけにもいかないから、「解説者として頑張ります」と答えました。当時、チーム内でいろいろゴタゴタがあって、水原さん自身の立場も危うかったようです。

── いきなり26歳で戦力外通告を受けて、ここから解説者としての生活が始まりました。いろいろ大変だったのではないですか?

佐々木 解説者としては未熟な私が、ベテランに負けない解説をするためには「若さと行動力で勝負するしかない」という思いでしたね。ほかの人が1時間前にグラウンドに行くのならば、自分は2時間前、いや3時間前に球場入りして、生きたネタを集めるべく取材をしました。誰もいないグラウンドで芝の目をチェックしたり、外野フェンスのラバーに体当たりして感触を調べたり、好奇心の赴くままいろいろ取材しました。そうして、少しずつ認められていった気がしますね。

中編に続く>>

佐々木信也(ささき・しんや)/1933年10月12日、東京都生まれ。湘南高では1年時に夏の甲子園で全国制覇。慶應大では内野手として活躍し、4年で主将を務める。56年に高橋ユニオンズへ入団。1年目から180安打を放ち、ベストナインに選出された。その後チームは大映ユニオンズ、大毎オリオンズと変わるも、59年限りで戦力外となり現役引退。26歳で野球解説者に転身し、76年からスタートしたフジテレビの『プロ野球ニュース』の初代メインキャスターとして人気を博した。