藤波辰爾が語る武藤敬司(1)

スペースローンウルフ時代の飛躍と苦悩

 プロレス界のカリスマ武藤敬司が、2月21日に東京ドームで引退する。ラストマッチの相手は、新日本プロレス「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」の内藤哲也だ。



 武藤は1984年10月5日のデビューからの38年4カ月で、新日本、全日本プロレス、WRESTLE-1、プロレスリング・ノアを渡り歩いた。さらに、化身のグレート・ムタとして米国でヒールを極め、「武藤」と「ムタ」ともに頂点に君臨した。

 幾多の伝説をマットに刻んだ武藤のレスラー像と素顔を、新日本時代の大先輩で69歳の今も現役を続ける藤波辰爾が証言する短期連載。その第1回は、デビュー間もない「スペースローンウルフ」時代の飛躍と苦悩について語った。

藤波辰爾が振り返る、新日本の「別格の新人」だった武藤敬司。フ...の画像はこちら >>

フルフェイスのヘルメット、シルバーのジャンパーを着て入場していたスペースローンウルフ時代の武藤

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 武藤は1984年4月に新日本プロレスに入門。同じ日、のちに「闘魂三銃士」と呼ばれる蝶野正洋、橋本真也も入門したが、この年の新日本は1972年3月の旗揚げ以来の危機にさらされていた。


 同年3月、新団体「ユニバーサル・プロレスリング(UWF)」が設立されることが判明した。その新団体には前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬らが移籍。さらに6月には、藤原喜明、髙田伸彦(現・延彦)も移ることになった。

 さらなる激震が走ったのは9月。「維新軍団」として人気絶頂だった長州力、アニマル浜口らを中心に、大量13人が離脱したのだ。新日本を辞めた長州らは新団体「ジャパンプロレス」を設立し、1985年1月からライバル団体の全日本に本格参戦した。


 そんななかで武藤は1984年10月5日、埼玉・越谷市体育館での蝶野戦でデビューした。当時、新日本でアントニオ猪木に次ぐスターだった藤波は、練習生時代の武藤について「蝶野、橋本もそうですが、当時の武藤はあまり印象に残っていないんです。長州が移籍するなど会社が大変な時で、若手を見る時間がなかったですから」と明かした。

【新日本の「暗黙の了解」を覆した別格さ】

 存在を強く認識するようになったのは、1986年10月13日、後楽園ホールで対戦した時のことだった。当時の武藤は、約1年間にわたるアメリカでの初の海外武者修業から凱旋帰国したばかり。コスチュームも前座時代の黒のショートタイツから青のロングタイツに変身し、「スペースローンウルフ」とキャッチフレーズがつけられ、新たなスタートして大々的に売り出された。

 その後楽園ホールで相手を務めた藤波は、試合をこう振り返る。



「軽快で常に動いている印象でした。僕は、どっしり構える選手よりも動きが速い選手のほうがやりやすいので、試合は噛み合った記憶があります。ただ、凱旋したばかりだからといって、武藤に花を持たせようなんて思いは一切ありませんでした。リングに上がれば先輩も後輩もない。立場は対等だから叩き潰すつもりで迎え撃った覚えがあります」

 武藤はデビューからわずか1年で渡米。若手レスラーの海外武者修業は、いわば将来的な出世へのステップだが、ほとんどのレスラーがデビューから3年、あるいは5年目で海外へ行くことがほとんどだった。
そんな通例を武藤は破った。当時の新日本が、それほど武藤に期待していたことを藤波は明かした。

「長州たちが移籍して新日本が慌ただしくなり、『早く次のスターを生み出さなければいけない』という雰囲気になっていたんです。それで武藤が指名されて、『まだ早いかもしれないけど海外を経験させよう』となったんです」

 さらに武藤が別格だったのは、トップロープからバック転でボディプレスする「ムーンサルトプレス」を、前座時代から決め技で使っていたことだ。新日本では伝統的に、前座レスラーはメインイベンターが使うような派手な技はやってはいけないという"暗黙の了解"があった。ところが、武藤はデビューから5カ月後の1985年3月の試合でムーンサルトプレスを使っている。
しかし藤波をはじめ、先輩レスラーたちが武藤を咎めることはなかった。

「実は、猪木さんも『前座だからこの技をやっちゃいけない』と言ったことはないんですよ。"暗黙の了解"とか言われますけど、前座のレスラーは派手な技をあえて出さないんじゃなくて、試合でできないだけなんです。僕も前座時代はドロップキックぐらいしかできなかったけど、武藤はムーンサルトができた。彼の運動神経がいかにずば抜けていたか、という証拠ですね」

【嫌がっていた「スペースローンウルフ」】

 凱旋帰国後の初戦となった後楽園ホールでの試合でも、藤波は武藤の運動神経、それ以外の能力の高さを実感したという。

「レスラーになる前は柔道で全日本の強化指定選手に選ばれるほどの実力がありましたが、試合ではその技術をそれほど見せなかった。

それほどレスリングの勘がよく、オールラウンドに何でもできる器用さがありました。足の運び、ステップはナチュラルで非常に柔軟さがあり、自分が攻めている時も反応が早いんです。それは教えられるものではなくて、"天性"だと思います。

 さらに試合のなかでも、何か新しいことにチャレンジしようという向上心があった。トップレスラーになれるかどうかは『自分で何かを作ろう』という気持ちが重要なんです。加えて人を惹きつける華もあったので、『武藤はこれから伸びる』と感じました」

 若手時代から観客をどう惹きつけるかを自分で考えていた武藤。だからこそ、新日本がつけた「スペースローンウルフ」のキャッチフレーズには抵抗していた。特に帰国した当初の、フルフェイスのヘルメットをかぶっての入場を嫌がっていたという。

「武藤という新しいスターをどう売り出すかをみんなで考えてね。若手で無名だから、ファンに印象に残るようにとヘルメットをかぶせることになったんですが......本人も嫌がっていましたけど、実は僕も『どうかなぁ』と疑問に思ってました(笑)。あと、当時は入場の時に着せられていたシルバーのジャンパーも嫌だったようです。会社は会社で一生懸命に考えていたんだけど、武藤は人が決めたキャラクターを受け入れられなかったんですね」

 会社の決定に抵抗しながらリングに上がっていた「スペースローンウルフ」時代の武藤だが、同時に前田日明が率いるUWF勢に対する葛藤もあった。それが、「熊本旅館破壊事件」につながる。

(第2回:若き武藤敬司が前田日明に「あんたらのプロレスつまらない」→旅館破壊の大乱闘。UWFに反抗した理由は?>>)

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。