昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第14回)
前回を読む>>コーチには「絶対に手を上げるな」昭和の時代に暴力禁止を徹底

1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。

ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。

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江藤慎一が野球学校で教えていたこと 落合博満は「あいつほど練...の画像はこちら >>

アメリカから帰国した江夏豊(右)を出迎える江藤慎一(左)

 竹峰丈太郎は二度と野球などやるものかと思っていた。兵庫県加古川のボーイズリーグ時代には、オールジャパンに選抜されて、世界大会にも出場していた。同年代では日本屈指のショートに、高校進学時は多くの名門校からの誘いがあったが、甲子園に出るには、予選参加校の少ない島根県がよいだろうという判断で江の川(現石見智翠館)高校への進学を選択した。
しかし、これが大きな間違いであった。

 1年の秋から内野のレギュラーでベンチ入りを勝ちとるが、監督による理不尽な暴力に延々と傷つけられた。練習中のプレーのみならず、挨拶、態度、振る舞いが悪いと言われては、殴られ、蹴られた。同級生の誰かがしくじると、連帯責任ということで、寮で全員が体罰を受けた。

 2年生の夏の大会で県のベスト8で敗退して新チームが結成されると決定的な出来事が起こった。シートノックを受けていた時、サードの選手がエラーをした。

激怒した監督がノックバットを振り上げて呼びつけた。

「また選手を殴るのか」ショートの守備位置にいた竹峰はげんなりしながら、ホームプレートに走るチームメイトの背中を見ていた。ところが、監督は続けて怒鳴った。「お前やない! 竹峰じゃ!」なんでボールに関与していない俺が? 納得できないという不満が顔に出た。「何や! その態度は!」とたんに意識を失うほどのゲンコツが降り注いできた。

 ボコボコに殴られて激痛が治まらず、病院に運ばれた。

高野連に知られることを避けるため、医師には体罰のことは、口に出せず、体育の授業でサッカーのゴールポストに頭から突っ込んだということにした。医師は「君、そういう角度で傷はついていないよ。これはそんなケガではない」と断じた。すべてわかっているようであったが、黙って治療を施してくれた。しかし、その晩も2年生は全員が集められて殴られた。なかには鼓膜が破れた仲間もいた。

 竹峰は先輩の言葉を思い出していた。「気をつけろ、新チームになったら、絶対に誰かひとりが徹底的にシバかれるぞ」緊張をもたらす意味で、主力をシメることが、連綿と続いていた。

 それまでもことあるごとに竹峰は、最も殴られていたが、常軌を逸する今回の体罰で完全に気持ちが切れてしまった。メンバーは「お前に期待してるから、監督は殴るんや」と慰めるように言ってきたが、「美談にするな」と言い返した。「やられている俺にはわかるんや。ただ感情的に嫌われて見せしめに殴られているんや」

 この一件から、竹峰は心を閉ざしてしまった。

実際、嫌われていたのか、それまで主軸の4番を任されて4割は打っていたが、あからさまに打順を下げられて、3年の夏の予選では8番に下ろされていた。県外に出してくれた親のためにも退部することはかろうじて踏みとどまっていたが、新しいチームになってからは、あれだけ好きだった野球に対する心がもうカラカラに乾いてしまっていた。

 だから夏の島根県予選で負けた時も涙は出なかった。県外のボーイズリーグから、有望な選手を集め、1年の時から甲子園は確実に行けると言われていた竹峰の学年は準決勝で敗れた。しかし、ずっと嫌な気持ちでいた竹峰は一粒の涙も出なかった。

 ある日、監督に呼ばれた。

「大学や社会人の話もお前にはきているが、卒業したあとはどうする?」と訊かれた。「野球は高校でやめます」と即答した。監督の思惑で進路を決められるのは、もう嫌だった。卒業してまでも俺が口を利いたという呪縛に遭うのはたくさんだった。

 自身も大学まで野球を続けていた竹峰の父親は、白球を追い続けてほしいと言ったが、すでにオファーのあった大学には断りを入れてしまったあとだった。当時の日本には、現在のような独立リーグは存在せず、高卒の選手の場合、監督の推奨するルートから外れて野球を続けることは、不可能に近かった。

 年が明け、学校には就職する、と伝えていたが、悶々とする時間が続いていた。そんなある日、親戚が新聞を一部持ってきた。そこには、日本野球体育学校、通称江藤塾の広告が載っていた。

 竹峰の父は広告を見ながら言った。「もしもお前が高校の監督を見返したいんやったら、野球で見返すしかないぞ」それは、自分の力でプロになることではないか。竹峰は卒業前に乃木坂にあった江藤の事務所を訪ねて行った。

 入校に際して、江藤との面談が行われた。開口一番、こう言われた。「うちはプロの養成所やないぞ」

 竹峰は虚心坦懐、なぜここに来たのかを伝えた。野球が好きで甲子園に出場したくて越境入学までしたこと、寮生活をしてきたが酷い体罰にあって野球をずっと辞めようと思っていたこと、卒業したら野球を辞めるつもりであったが、やはり自分はまだプレーをしたいという気持ちに気がついたことなど、素直な気持ちを吐露した。

 竹峰は世代的に江藤の現役時代は知らない。しかし、父から豪傑で知られたエピソードは聞いていたし、強面の風貌からも暴力や精神論を肯定されるのではないかと、内心恐れていた。「理不尽に殴られたと思ってもあとから感謝することが、必ずある。今の自分があるのは、あの時の鉄拳があったからと思える時がくる。それができないお前は弱いんだ」そんな言葉が返ってくるのではないか。しかし、違っていた。「バカバカしい。野球は暴力やない。野球は技術やぞ。技術を知って上達するんや。殴ったり、蹴ったりで上手くなるはずがないやないか。野球は根性やない」江藤はハナから、体罰を否定した。

 竹峰は、身体の奥底に沈殿していた思いをしっかりと言語化してくれた人が目の前に現れたことに感動していた。「この人について行こう」入校を決めていた。別れ際、握手をした時の江藤の手のひらの大きさに驚いた。

 竹峰は島根に戻ると、進路先のことは誰にも告げずに卒業式を済ませると、その足で湯ヶ島に向かい、日本野球体育学校の2期生として入寮した。

 おりしもこの1986年に、同校のクラブチーム天城ベースボールクラブが社会人のクラブチームとして登録された。これで公式戦の参加が許された。

 日本野球体育学校自体はまだ生徒数が23名で、学校法人申請基準の40名に達しておらず任意団体のままであったし、寮は古い旅館を改装ならぬ転用したもので、環境は劣悪と言えた。

 しかし、竹峰はこのクラブチームで水を得た魚のように躍動した。江藤は寮でもグラウンドでも一切の暴力を禁じていた。ここで初めて野球の本当の技術を教わった。「フライは両手で取るな、片手で取れ」「打撃はヘッドを走らせろ」コーチの加藤和幸は、なぜそうするのかを、丁寧に論理立てて説明してくれた。

 36年経って竹峰は振り返る。

「今、思えば、高校時代の監督は教える技術がなかったんですね。だから怒鳴っていた。僕は何ひとつとして教えてもらっていない。気分が悪いと言っては怒ったり、エラーをしたと言っては殴る。技術がわからない人は、ただ『前で打て、ボールを見ろ、正面で取れ』と言う。

 江藤さんと加藤さんは、『キャッチボールでも片手で取れ』と言う。片手だと稼働する範囲が広くなるやろうと、そこまで丁寧に教えてくれました。バッティングも『細かいところはある程度のところまでいかないと教えられない』と言われながら、段階を踏んで指導してくれた。『手やなくて下半身からバットのヘッドを出すんや』と。

 江藤さんはロッテ時代に落合(博満)さんを見て教えているんですよ。落合さんの話はよくしていました。『あいつほど、練習した奴はいない』と。たまたまYouTubeを見ていたら、ある中日の選手が教えて下さいと落合監督に言ったら、『振れ!』と言われてスイングを4時間ひたすらして、それを観察されていたという。その教え方は江藤さんと一緒なんです。『スイング見て下さい』と言うと、ずーっと振らされる。へとへとになると『OK、それやで。それを忘れるなよ』と言われて終わる。続けるとヘッドを走る感覚がわかるんです。

 僕は江藤塾で目から鱗の連続でした。イチローは出始めの頃に、振り子打法であんなに頭が前に行っていたらあかんと評論家が言うなか、江藤さんは、トップが残っているから突っ込んでもええんや、と言うてました。技術論がとにかく論理的でした」

 学校のほうは午前中が座学の授業で、江藤の人脈を活かして、幾人もの選手やOBが講義に来てくれた。サッカーの釜本邦茂や江藤の弟の省三、そして特筆すべきは、大リーグに挑戦し、夢破れて帰国した江夏豊がその2か月後に湯ヶ島まで来てくれたのである。江夏が講義したあとは、寮の赤電話の前に行列ができた。それぞれにわけがあって日本野球体育学校に入って来た選手たちが、親や親類、友人たちに感動を伝えるために殺到したのである。

 天城ベースボールクラブとしての試合は、中央、国士舘といった東都の大学やスリーボンド、ヨークベニマルなどの社会人チームと行なわれた。竹峰はバッティングを活かすために外野に転向していたが、2年間プレーを続けると、ロッテ、阪神、阪急から、スカウトの打診があった。

 江藤に「ドラフト外でも行きたいです」と伝えると、「あと1年待て。まだ全部は教えきっていない。体力がない。プロに入って終わりではない。そこで活躍してほしい」しかし、竹峰は急いだ。「今、行きたいんです」何度もかけあって許しをもらった。

 こうして1988年、竹峰は奇しくも高校の後輩である谷繁元信(大洋入団)と同期のタイミングで阪神タイガースにドラフト外で入団した。日本野球体育学校のプロ入り第1号であった。

 高校時代の監督から自宅に祝福の電話が入ったが、竹峰はがんとして受話器をあげようとしなかった。

 阪神に入団すると、江藤が太平洋の監督時代に手塩にかけた真弓明信がことのほか、可愛がってくれた。

「真弓さんにもバッティングを教わったんですが、バットの始動のさせ方や、『ボールの下を叩いてバックスピンをかけろ』という点が江藤さんと同じでした。江夏さんが評論家でキャンプで来られたので、挨拶に行ったら、『ここはややこしい球団やけど頑張れよ』と言っていただきました」

 しかし、竹峰のプロ生活は在籍2年で幕を閉じた。江藤の懸念していた体力不足が要因でもあった。先輩たちはキャンプでもアップで平気で3時間も基礎訓練を繰り返していた。思えば、日鉄二瀬の頃に濃人渉が江藤に「プロ入りは3年我慢しろ」と言ったのもこの体力強化が目的であった。たらればはないが、あと1年、竹峰が入団を遅らせていたら結果は変わっていたかもしれない。

「僕は、プロに入った段階でもう満足してしまっていたのかもしれません。理不尽な高校時代の監督をそこで見返すことができたからです。恩人の江藤さんの顔に泥を塗ってしまったのは、今でも申し訳なく思っています。退団した時は、報告をしたんですが。何も細かいことは言わずに、よう頑張ったなと励ましてくれました」

 江藤は、矛盾や理不尽のなかで生きてきた選手、特に大学を中退した選手を大事にしていた。

「きつい寮生活に耐えかねて、大学をやめたら、野球をする場所がない時代に、続けたい人の受け皿になっていました。その後、広岡達朗さんが滋賀に野球学校(甲賀総合科学専門学校)を作りましたよね。亜細亜大学を中退した藤本(敦士)がそこから育ってプロになりましたけど、その前から江藤塾はそういう役目を果たしていました」

 今、運送業を営む竹峰は少年野球を指導している。

「弱い指導者ほど、人を殴る。あれは絶対にだめですよ。若い選手が、監督の顔色を見て、サインひとつで動かされて、間違えると殴られて。そりゃあ野球人口も減りますよ。空き地で楽しかった頃を忘れています」

竹峰の息子は春から中学の硬式チームに入る。竹峰は、こんこんと理論で諭すようにしている。

(つづく)