昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第16回)
前回を読む>>江藤慎一の晩年はスポンサー探しに奔走 所属選手の売り込みのため朝6時半にスカウトに電話をかけ続けた

 1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。

ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。

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江藤慎一に弟のようにかわいがられた江夏豊 逮捕後も「おい、や...の画像はこちら >>

江夏豊のメジャー挑戦時の壮行パーティー。左から江藤、長嶋茂雄王貞治、江夏、鈴木啓示、張本勲

 誇り高い左腕が口を開いた。

「いまだに忘れられんのが、亡くなる最後の1週間ぐらい前やったかな。

見舞いに行ったら、体が全く動かない。ただ、目の瞳だけが、動いてるわけ。だから、誰が来たかはわかるんだ。でも、しゃべれない。そんな江藤さんが手を伸ばして、俺のこの指を右手でぐっと握った。力が入るのがわかった。
本当に涙が止まらなかった」

 江夏豊は阪神の新人の頃から、江藤との勝負を楽しんできた。インコースでもアウトコースでも左右に打ち分ける技術があり、まちがっても高めにいけば、長打を食らう。打者の心理を読むことに長けた江夏が、勝負師としての江藤をこう回顧する。

「やっぱり、バッターの性格を知るというのは、大事、いや大事と言うよりも、大きな武器ですね。プロのバッティング技術が、高度なのは当たり前です。だから、相手が打ちたがり屋なのか、反対に無理して打たないタイプなのかを見極める。

江藤さんは必ず振ってきた。一対一の力勝負を好む人だったから」

 江夏と言えば、1971年のオールスター第1戦における9者連続三振が有名であるが、その時のオールパシフィックの4番がこの年に首位打者になるロッテの江藤であった。

 当時のプロ野球は、巨人を中心にした圧倒的な人気のあるセ・リーグに対して、パ・リーグは6球団合計の観客動員数が巨人一球団とほぼ同じという状態が続いていた。パ・リーグの強打者たちは皆、オールスターでセ・リーグのエースの球を打ち込んでやるという意気込みでかかってきた。ただバットに当てようとする者はおらず、江藤は特にそうであった。目線よりも高いボール球をフルスイングして、三振に倒れても悠然とベンチに戻って行った。

 さらに逸話がある。前年の1970年のオールスターの第2戦に登板した江夏は、ここで有藤道世以下、長池徳二、池辺巌、張本勲、野村克也と5者連続三振を奪っていた。つまり1971年第1戦を終えた段階で14者連続三振を達成しており、記録は継続中であった。後楽園での第3戦に江夏が登板すると最初に代打で登場したのが江藤であった。ここでも力勝負を挑み、見事に三振に倒れて15人目の打者となった。(次打者は野村でセカンドゴロで記録は潰えた)

 江藤が現役を退いたあとも交流は続いた。

江夏が西武ライオンズに移籍後、広岡達朗監督との軋轢から、不本意なかたちでユニフォームを脱ぐことになり、引退式をすることになったが、どの球団も球場を貸してくれなかった。最後は多摩市の一本杉公園野球場で行なうことになったが、当初は名球会も冷淡であったという。

 江藤はハワイの名球会総会で協力しようではないか、と提言を繰り返した。引退式が行なわれた日、江藤は湯ヶ島の日本野球体育学校の開校準備をこの年の春に控えて忙しいなか、真っ先にかけつけて江夏が乗る騎馬の先頭を受け持ち、胴上げでは、真ん中で支えた。

 さらに江夏が渡米して大リーグに挑戦することを表明すると、その決意を最も喜んでくれたのが、江藤だった。

「食事をしている時にその挑戦を告げたんですよ。

そうしたら、本当に熱い言葉をいただいて。僕がアメリカに行った理由というのは、まだ3、4年現役をやれる自信があったのに広岡野球、組織野球に勝手に干されたわけで、江藤さんもそれをよくわかってくれていました。だから、挫けるなという激励もあったと思います。メジャーに出発する時は、もう名球会のなかでも先頭になって喜んでくれて、周りの人にしてみたら、なんで江夏が行くのに慎一さんがこんなに喜ぶのって、そういうような感じを持たれていました。まるで弟が行くように嬉しそうにされていて、俺はここまで思われているの?という変な喜びがあったのは覚えています」

 江藤は江夏が腕一本で海を越えて海外へ野球をやりに行くことを我がことのように喜んだ。何となればそこに夢があったからであろう。

 江夏から渡米する話を聞いた夜、江藤は大洋時代のチームメイトで離日後はサクラメントに暮らすクリート・ボイヤーに国際電話をかけた。あの阪神タイガースにいたサウスポーのエナツが、3Aバンクーバーとの契約を交わし、ブリュワーズへの入団を目指してアメリカに行く、ついては何かあれば支えてやってくれないか。ボイヤーは「どうしてもっと早く教えないのだ。うちのアスレチックスでもエナツの力になれたではないか」と半ば怒りながら、約束を守ってくれた。

「どこだったかな、アメリカのちょっと地名を忘れたけど、オープン戦で会ったときに、ボイヤーはすぐ来てくれて、片言の日本語で江藤からのコメントだっちゅうことを言ってくれた。アジア人への人種差別もある広いアメリカで江藤さんの名前を聞いただけでもやっぱりほっとしましたね」

 36歳の江夏はアリゾナ州フェニックスのブリュワーズのキャンプ地で3か月に渡ってメジャー昇格に向けて闘い続けた。その間、江藤から2度、手紙が届いた。

「プレーや環境については何も具体的になかったですが、武士は刀だけは常に磨いておけというようなことが書かれていました」

 孤独な挑戦のなかでひとときの励ましになった。言葉の通じない慣れぬ異文化のなかで通訳もつかず、その待遇は日給25ドルで身の回りのことはすべて自分でやらなくてはならない。

「日本人のいないチームで、相手も、日本人との接し方がわからない。だから、戸惑うケースが多かった。人種差別いう言葉、日本では簡単に言ってるけど、やっぱりかなり窮屈なとこがあって、トイレも白人専用でそこは使うなと言われたところがありました。キャンプでは、夜寝る時に、日本におれば、もうちょっといい思いをして暮らせるのに、俺はなんでこんなところに来て、こんな寂しい思いして寝ないかんのかっちゅう。それは、何回か思ったけど、自分で割りきらないとしゃあないと思い至った。だから、やっぱりアメリカに行った3か月間というのはいい勉強になったね」

 江夏はテストの最終段階までロースター(登録)に向けて結果を出し続けてきたが、最後のイスを巡ってテッド・ヒゲーラに敗れた。1985年4月、リリースが告げられたが、悔いはなかった。

「自分は広岡さんに投手としての死に場所をとられて不完全燃焼やったから、投手魂を納得させる場所がほしかったんやね。最後に結実した」

 心酔する新選組の土方歳三は幕臣でありながら、侍として燃え尽きるために函館五稜郭に死に場所を求めた。それが江夏にとってはブリュワーズのキャンプだった。江夏と争ったヒゲーラはこの年15勝をあげる。いかにレベルの高い戦いであったことか。

 これより10年後、野茂英雄が近鉄を退団し、メジャーへの入団を表明した際、ほとんどのマスコミや評論家はバッシングを繰り返したが、江夏は野茂の夢を支持して応援する論陣を張った。それが自身の体験からきていることは言うまでもない。

 メディアも球界も夢を追う後進をなぜ、応援してやらないのか。

「俺も野茂もメジャーに行く最初は頑張れという声を聞いたことがない。そういう状況で(アメリカに)行ったんだから。野茂への応援は、やっぱりいい意味で、江藤さんが俺を思ってくれた気持ちと同じやね。いや、うれしかったしね。また俺やから、野茂も喜んだんじゃないかな」

 江夏は、メジャーへの夢が成就せず帰国してから、江藤の主催する日本野球専門学校を訪ねて講演を行なっている。

江藤慎一に弟のようにかわいがられた江夏豊 逮捕後も「おい、やんちゃくれ来いと言ってくれた。実質、兄貴やったかな」

アメリカから帰国した江夏(右)を出迎える江藤(左)

「そこにおる人が全部とは言うんじゃないですけど、結構、優秀な有望な人でも、人との接し方ができなくて問題を起こしたり、暴力を振るったり、そういう人ってたくさんいる。好きな野球ができなくなった。それは、もう僕も何人か見てきているし。僕自身が、中学の時、暴力問題でクビになって陸上部に入って砲丸投げをしとったんやからね。そういう子らへの機会を提供するのは大事ですよ」

 江夏は1993年に覚せい剤所持の容疑で逮捕され、2年4か月の実刑判決を受けていた。

「よい野球人でも、やっぱり江夏という人間を温かく包んでくれる方というのはそうはいない。それは、いろんな感情が湧いて近づき難いというふうになれば、合わない部分も当然人間だからあると思うんです。でも、江藤さんは、初めから弟に接するような、おい、やんちゃくれ来いと言ってくれた。僕の人生にとって実際の兄貴は2人いたんだけど、そういう接し方が、できなかった。僕の環境は、3人兄弟で男ばっかり。長男は、14歳上で、親父はいなかったから、もう親父代わりで。真ん中の兄貴は、養子に出されたから。あまり子どもの時に遊んだり、一緒にご飯を食べたという思い出がないんです。だから江藤さんが実質、兄貴やったかな」

 全盛期のONを押さえての2年連続の首位打者、水原茂監督との確執によっての任意引退、副業の会社の倒産と借金、セ・パ両リーグにまたがる首位打者、再びのトレード、兼任監督、4度目の放出、少年野球、野球学校......、これらの半生を踏まえて江藤さんはどんな存在でしたか、と訊くと、孤高の左腕は、「こよなく野球を愛した誇るべき先輩やね」と言った。

(おわり)