小林至インタビュー(前編)

 東大卒でありながら1991年にドラフト8位でロッテに入団した小林至氏。「天才ルーキー」として注目を集めたが、プロ野球生活は一軍経験のないままわずか2年で幕を閉じた。

その後、米コロンビア大学経営大学院でMBA(経営学修士号)を取得し、大学教授と球団フロントという"二刀流"でも活躍した。東大からプロ野球選手、教授、球団経営と、波瀾に満ちた人生を振り返る。

東大からプロ野球選手、イチローに打たれ二軍降格、ナベツネ・孫...の画像はこちら >>

2005年から10年間、ソフトバンクの球団経営に携わった小林至氏(写真右)

【プロ野球選手から大学教員になったワケ】

── 小林さんは1992年から2年間ロッテでプレーされ、02年から江戸川大学社会学部助教授(現・准教授)に着任されました。

小林 教員を選択したのは、単刀直入に言えば"定職のアテ"がなかったからです。アメリカから帰国した33歳の時に、江戸川大学の太田次郎学長にお声がけいただきました。太田学長は有名な理学博士で、お茶の水女子大学の学長も務めた方です。そんな方から「東大に入学したのにプロ野球界に身を投じた、あなたの生き方が好きだ。

若者の参考になるだろう。東大文科Ⅱ類(経済学部)出身、MBA(経営学修士号)を取得しているのだから、専任教員として経営学を教えてもらいたい」と。

 思えば93年にロッテを自由契約になった私は、周囲の勧めで米コロンビア大学経営大学院に留学したのです(96年修了)。プロ入り時の契約金は2000万円でしたが、税金と球場に通うために新車(約200万円)を購入。残りの約1200万円は学費(約600万円)と2年間の生活費で消えました。

── アメリカで就職はされたのですか。

小林 金融機関のゴールドマン・サックスから面接の機会をもらいました。コロンビアMBAの学生の多くがウォール街を目指すのですが、なかでもゴールドマンは憧れの就職先です。ただ、なんとなく留学した私はそんなことも知らずに「ふーん」という感じで、最終面接を寝坊してすっぽかしてしまいました。

 そんななか、就職先でひとつだけ真剣に考えていたのがMLBでした。野茂英雄が95年にメジャー入りして、大ブームを巻き起こしていた頃です。ツテを頼りにようやく会えたMLBの国際部長に「日米の架け橋になりたい」と直訴しましたが、縁はありませんでした。

 ようやく就職先を見つけたのは、卒業して2カ月ほど経ってからでした。大学院時代の友人がみんな就職したり、起業の準備で忙しくしている姿を見て、日毎に焦りが募っていきました。そしてアトランタ五輪も終わり、秋の気配を感じる頃に黎明期のインターネット求人サイトで見つけた「日本語のできるスタッフ」を募集していたフロリダにあるゴルフ専門のケーブルテレビ局に就職しました。ところが、こちらも4年目の2000年に会社批判をして2度目の自由契約となりました。

── そのあと、帰国されたのですよね。

小林 2001年に帰国し、参院選に立候補するも落選。

テレビのコメンテーターや通訳、執筆の仕事で食いつないでいましたが、出馬により政治色がついたことでマスコミ絡みの仕事が激減。途方に暮れていたところ、先述した江戸川大の学長に声をかけていただいたというわけです。夢だったプロ野球選手がファーストキャリアなら、アスリート以降の私の人生はいわゆるセカンドキャリアと言えるでしょう。

【東大時代0勝でプロ野球選手に】

── 話は戻りますが、小林さんは桑田真澄さん、清原和博さんの「KK世代」ですね。そもそも東大生なのに、なぜプロ入りを考え、ロッテに練習生で入ったのですか。

小林 中学時代は卓球部。高校3年時は左投げの控え投手でしたが、なぜかまだ野球を続けたくて......。

世間に名の知れた強豪大学では無理。でも野球で輝きたいということで、東大野球部を目指すことにしました。高校3年夏に初めて受けた模擬試験では、偏差値は40台でしたが、一浪して、猛勉強の末に東大文科Ⅱ類に合格。野球部の門を叩きました。

── 小林さんが在籍していた時の東大野球部はどうでしたか。

小林 1年秋に東京六大学リーグ通算199勝目を挙げたのですが、そこからじつに70連敗。

それをマスコミが注目しました。神宮のマウンドでは、慶應の大森剛選手(のちに巨人)、法政大の高村祐投手(のちに近鉄)らと対戦しましが、通算成績は0勝12敗でした。

── そこからプロを目指すようになったのはなぜですか。

小林 野球に未練があり、大学卒業後も続けたった。そこで私は「プロでやりたい」と言い続けました。すると、広島の渡辺秀武スカウトが「ウチでは無理だけど、ロッテの金田正一監督を紹介するよ」と言われて、90年秋にロッテの入団テストを受けました。

── 入団テストはどうだったのですか。

小林 最速130キロ弱。持ち球はカーブとシンカー。不世出の大投手・金田正一さんは実力うんぬんよりも、夢にかける若者の可能性を買ってくれたのでしょう。それで留年していた私は「夢がかなったのだから、中退してプロ入りします」と言うと、ロッテの醍醐猛夫スカウト部長が「せっかく入った東大を辞める必要はないだろう」と。周囲の説得もあり、1年間はロッテの"練習生"という立場で練習に参加しながら、単位を取得。そして91年にドラフト8位で指名してもらったのです。

 ちなみに、とてもお世話になった醍醐さんは王貞治さんより2歳上で、早稲田実業でバッテリーを組んでいました。のちにソフトバンクで王さんとご一緒するのですから、何か縁があったのかもしれません。

イチローに打たれ二軍降格】

── 小林さんが入団された当時のロッテは、野手では西村徳文さん、愛甲猛さんらがいて、投手は伊良部秀樹さん、前田幸長さん、小宮山悟さんたちが一軍にいました。現役時代に思い出に残っていることは何ですか。

小林 プロ2年目の93年、日本ハムとのオープン戦に中継ぎで2イニングを無失点で抑えました。相手打者は広瀬哲朗さん、白井一幸さん、中島輝士さん、ウインタース......。翌日、体に強い張りが出ましたが、心地よい疲労感でした。

 私がソフトバンクのフロント時代、球場で白井さんに会った時にこう言われました。「15年前のことでも、投手ゴロに打ちとられたのをはっきり覚えているよ。ビリヤードだったなぁ」。ビリヤードとは、バットの先端にボールが当たることです。思いきり腕を振ってもボールがこなかったのでしょうね(笑)。でも、それが私の持ち味でした。オープン戦とはいえ、1週間ほど一軍に帯同できたのはうれしかったですね。

── その後も登板はあったのですか。

小林 つづくオリックス戦では、のちにイチローとなる鈴木一朗選手と対戦しました。高卒2年目でしたが、その前年にウエスタンリーグで首位打者を獲っていました。カウント3ボールから置きにいった球をものの見事に右中間三塁打です。その後、味方が逆転してオープン戦ながら"プロ初勝利"が転がり込んできましたが、二軍行きを通告されました。「この試合を抑えたら開幕一軍もあるぞ」と言われていただけに悔しかったですね。それにしてもさすがイチローです。今となってはいい思い出です。結局、プロ2年間で一軍登板はなし。イースタンリーグでは26試合で0勝2敗、防御率6.17。憧れのプロのユニフォームは2年で脱ぐことになりました。

【ソフトバンクの取締役に就任】

── 2004年、小林さんの著書『合併、売却、新規参入。たかが...されどプロ野球!』(宝島社)が脚光を浴びました。

小林 2004年は、オリックスが近鉄を吸収合併することに端を発した"球界再編騒動"が勃発しました。大学教員であり、スポーツビジネス、とくにプロ野球の球団経営を研究していた私はこの本を12月に上梓しました。そのなかで球界再編のキーパーソンである読売新聞社の渡邉恒雄主筆のインタビューに成功したのです。

 その後、渡邉氏には折に触れて声をかけていただきましたが、ものすごい勉強家です。野球協約の本の厚さが、本来の2倍に膨れ上がっていました。なぜなら、折り目と付箋だらけだからです。アンダーラインの数も半端なかったですし、重要な箇所は暗記するほど読み込んでいました。その渡邉さんが拙著を200冊購入してくれて、知人に配ったことをのちに知りました。そのひとりが孫正義さんだったのです。

── 同書がきっかけでソフトバンクに迎えられたと。

小林 ソフトバンクはダイエー球団を買収し、05年から球界新規参入が決まっていました。年明け早々の1月にソフトバンクの球団経営の勉強会に呼ばれ、初対面の孫さんは開口一番「面白い本だった!」と。勉強会終了後、「大学教員との兼務で構わないから、経営を手伝ってくれ」とフロント入りのオファーをいただき、球団取締役に就任しました。

── 球団フロントとしての10年間で、「常勝ソフトバンク」の礎を築きました。最初の5年間は経営戦略。後半の5年間は王貞治会長・秋山幸二監督の腹心のGMとして敏腕を振るいました。印象深い出来事を教えてください。

小林 05年からの前半の5年間は渉外の仕事を中心としたビジネス担当で、パ・リーグやNPBの仕事に注力しました。07年の「パシフィックリーグマーケティング設立」に携わり、「侍ジャパン常設化」を提唱しました。

 10年からの5年間は、チーム担当、つまりGMの仕事が中心になり、「選手補強」「三軍制」「成果報酬の年俸制度」を手がけました。10年のドラフトでは2位で柳田悠岐(広島経済大)、育成ドラフトの4位で千賀滉大(愛知・蒲郡高)、5位で牧原大成(熊本・城北高)、6位で甲斐拓也(大分・楊志館)を指名。三軍制を始めることを念頭に臨んだドラフトで獲得した3人が、レギュラーとして巣立ってくれました。

── 三軍を設置されたことは、のちのソフトバンク黄金期の大きなきっかけとなりました。

小林 私が現役時代の二軍は、一軍選手の調整の場であり、有望新人の育成の場でした。それ以外の選手はなかなか試合に出られないという、私の体験が役立ちました。王監督も「フォークや内角の厳しい球は、実戦でしか経験できない。若手選手たちにもっと試合経験の場を与える必要がある」と強調されていました。野球選手は成長予想が極めて難しいのです。米メジャー球団がなぜ300人近くの選手を保有するのか、あらためて言うまでもありません。

── ソフトバンクが常勝軍団となるなか、孫さんはどのような反応をされていましたか。

小林 孫さんは私が事業報告に行くと、返ってくる言葉は決まっていました。「君たちに与えたミッションは『10連覇するチームをつくる』『メジャーのスーパースターを連れてくる』『世界一決定戦の道筋をつくる』の3つだ」と。孫さんは桁違いにスケールの大きい方でした。

 私は06年の第1回WBCの前に、NPB代表としてMLB機構と交渉もしました。MLB主催なのに、メジャーのスター選手が出なかったり、収入のほとんどが日本だったり、まず一回やってみようという感じで始めた大会が、このお盛り上がり。今やメジャーのスター選手も参加するようになり、大きく成長したことはすばらしいことだと思います。

 一方で、MLBとは収入、選手の年賦、施設やテクノロジーのインフラなど、あらゆる点で格差が生じ、当時よりもはるかに大きくなっています。そういう意味では"真のワールドカップ"は遠くなっている気もします。

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