実況アナ・舟橋慶一が振り返る「猪木vsアリ」(1)

 昨年10月1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さん。幾多の名勝負をリングに刻んだ"燃える闘魂"が、世界の格闘技史を揺るがせた一戦といえば、プロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」だろう。

今から47年前、1976年6月26日に日本武道館で行なわれた一戦を、試合の実況を務めた元テレビ朝日アナウンサー・舟橋慶一さんの証言と共に振り返る。

(以下、敬称略)

「6・26」アントニオ猪木vsモハメド・アリの実況アナウンサ...の画像はこちら >>

1976年6月26日の試合後、握手を交わす猪木(左)とアリ

【猪木vsアリ戦の噂に「本当にやるのかな?」】

 15ラウンド引き分けに終わった一戦は、試合直後には「世紀の凡戦」と酷評されたが、後年になって「現在の総合格闘技の礎」といった形で評価されるようになった。その功績を称え、猪木とアリが対戦した6月26日は、2016年に「世界格闘技の日」に制定された。今年、猪木が亡くなって初めての「6・26」を迎えた。

 その一戦を実況した舟橋は、1962年にテレビ朝日の旧社名であるNET(日本教育テレビ)にアナウンサーとして入社。スポーツアナウンサーとして活躍するようになった1969年7月から、同局の日本プロレス中継『ワールドプロレスリング』を担当することになった。

 猪木が1972年3月6日に新日本プロレスを旗揚げし、1973年4月からNET で毎週金曜夜8時からの中継がスタートすると、その実況も務めた。

猪木を"燃える闘魂"と形容するなど、「猪木の語り部」としてファンに絶大な支持を受けた。

 そんな舟橋が、猪木vsアリが実現に向けて動き出していると聞いたのは、新日本の中継がスタートしてから2年目の「1975年の2月ごろ」だったという。

「レスリングの海外視察に出かけていた日本アマチュアレスリング協会会長の八田一朗さんから、当時のワールドプロレスリングの総合プロデューサーだった永里高平さんへ、アメリカからの一本の電話があったんです。『ボクシング世界王者のモハメド・アリが、日本人の格闘家と戦いたいと言っている』という内容でした。この話を聞いた永里さんは、ハワイ出身の人気力士だった高見山と対戦させようか、と悩んでいました」

 一方で、八田が持ち込んだ構想に対し、NETの常務だった三浦甲子二(みうら・きねじ)が対戦相手に推薦したのは猪木だった。舟橋はこう振り返る。


「三浦さんは当時、猪木さんを本当にかわいがっていましたから、アリと対戦させたいと考えたんだと思います。ここは私の想像ですが、おそらく三浦さんは、アリが八田さんに『日本人の格闘家と戦いたい』と明かしたことを猪木さんに伝えたんだと思います。そうして2人の間で、アリ戦を実現するために動いたんじゃないかと。ただ、私はその話を聞いた時に『本当にやるのかな?』と半信半疑でした」

【アリ戦の話に、猪木は「ムフッ、ムフッ、ムフッ......」】

 だが、舟橋の思いとは裏腹に、事態は実現へと急展開する。

 1975年3月7日の『サンケイスポーツ』に、アリが八田に対して「東洋人で俺に挑戦する者はいないか」と明かしたという記事が掲載された。これを受け、猪木はアリへの挑戦を表明。

同年の6月9日、アリがマレーシアでの試合前にトランジットで羽田空港に立ち寄り、その際に行なわれた会見の席で、新日本プロレスの渉外担当者が挑戦状を手渡した。

 ここから水面下で交渉が始まり、翌年の3月25日、ニューヨークのプラザホテルで調印式が開かれた。しかし舟橋は、それでも「猪木vsアリ」に対して懐疑的だった。

「やることは決まったけど、『ルールが大変だな』と思っていました。プロレスとボクシングではルールがまったく違いますから、どう成立させるのか。場合によっては破談になる、とも考えていました」

 アリに挑戦状が手渡されてから、ニューヨークでの調印式まで約9か月。
その間、舟橋は毎週のテレビ中継で、猪木を取材していた。しかし、猪木は他の試合については雄弁だったが、アリ戦の話になると口を閉ざすことが多かったという。

「アリ戦の話題になると猪木さんは寡黙になりました。何を聞いても『ムフッ、ムフッ、ムフッ......』って微笑むだけで返事を避けていた。話せないことが多かったんでしょうけど、猪木さんの心情は痛いほどわかりました」

 さらに『ワールドプロレスリング』の番組プロデューサーなど幹部から、「番組内でもアリ戦の話題はなるべく触れないように」という指示があった。

「プロデューサーや運動部長から、『放送の中でその話題を入れるのはやめよう』と。
それは、実現しない可能性もあったからなんです。それだけ猪木vsアリは、私だけでなく局全体としても半信半疑だったということです」

 ただ、ひとりだけ、実現を信じて闘志を燃やしていた男がいた。他ならぬ、猪木本人だ。

「試合が決まるまでは話せないことも多かったようですが、猪木さんは『世界最強』と言われていたアリと闘うことで、プロレスの虐げられた歴史を正しく認識させようと思っていたんです。常に強さを追求して必死に汗を流しているのに、プロレスは世間から『八百長』などという悪いイメージで見られることが多かったですから。

 試合をやるとなれば、(アリへのファイトマネーなどで)新日本側が赤字になることはわかっていた。
でも、お金は関係ない。プロレスの市民権を取り戻す、世間を見返してやるという一心だったようです。試合が実現するまでは周囲から『できるわけない』などと揶揄されていましたが、猪木さんの真剣な部分は一切ブレなかったですね」

 その思いが、NETで決定権を持っていた三浦の心を動かしたのだろう、と舟橋は見ている。

「三浦さんも、猪木さんの純粋な部分が琴線に触れて、アリ戦を実現させてやろうと動いたんだと思います。三浦さんも猪木さんと同じように純粋なところがありましたね」

 新日本プロレスとNETは、前哨戦としてある試合を実施する。それは、ミュンヘン五輪の柔道で二階級制覇を成し遂げたウイレム・ルスカと猪木の「異種格闘技戦」だった。

「このルスカ戦の時点でも、『本当にアリとやるのか?』という雰囲気はまだ社内にありましたけどね。そんな疑問を抱きながら、私はルスカ戦の放送席に座りました」

 試合は1976年2月6日、日本武道館。「格闘技世界一決定戦」と銘打たれたルスカとの一戦で、舟橋は猪木の気迫に圧倒されることになった。

(2)「あれはアントニオ猪木でなければ見せられない瞬間だった」アリ戦の前に行なわれた異種格闘技戦>>

【プロフィール】

舟橋慶一(ふなばし・けいいち)

1938年2月6日生まれ、東京都出身。早稲田大学を卒業後、1962年に現在のテレビ朝日、日本教育テレビ(NET)に入社。テレビアナウンサーとしてスポーツ中継、報道番組、ドキュメンタリーなどを担当。プロレス中継『ワールドプロレスリング』の実況を担当するなど、長くプロレスの熱気を伝え続けた。