石毛宏典が語る黄金時代の西武(8)
渡辺久信 前編

(7人目・伊東勤 根本陸夫の肝煎りで西武へ 黄金時代を支えた正捕手は、東尾修ら名投手たちによって育てられた>>)

 1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。



 前回の伊東勤氏に続く8人目は、エース右腕として長らく先発ローテーションを支えた渡辺久信氏(現西武GМ)。入団当初の印象、共に先発ピッチャー陣を牽引した工藤公康氏との違い、1989年の近鉄とのダブルヘッダー登板時のエピソードなどを聞いた。

西武と近鉄の「伝説のダブルヘッダー」で渡辺久信がブライアント...の画像はこちら >>

【入団当初から完成されていた投球フォーム】

――渡辺さんは1983年のドラフト1位で西武に入団しましたが、初めて会った時の印象はいかがでしたか?

石毛宏典(以下:石毛) 自分と似て、さっぱりした性格だなと。いい意味で細かいことにこだわらないタイプだったと思います。西崎幸広(元日本ハムなど)や阿波野秀幸(元近鉄など)などが"トレンディエース"と言われていましたが、ナベちゃん(渡辺久信の愛称)も男前で身長が高くて、足も長いし、どんな服装も似合っていました。

 投球フォームはスマートでありながら躍動感があって、非常にいいピッチャーが入ってきたと思いましたね。左足を踏み込んでいく時に、セカンド側に右腕をポーンと下ろしてからピュッと上げるような感じ。

あくまでバッター目線ですが、「完成されたフォーム」という印象で、全盛期もそれが変わらなかったことを考えると、入団当初からフォームの完成度は高かったのかもしれません。大きな故障もほとんどしていないんじゃないですかね。

――ピッチングは、コントロールで勝負するよりも球威で勝負するタイプだった印象です。

石毛 そうですね。細かいコントロールはなかったですが、当時は140km台中盤くらいで「速いピッチャー」と見られていましたが、その中でもナベちゃんのボールは速く見えた。

 私は同じチームだから、ナベちゃん、工藤公康や郭泰源のボールもバッターボックスで見る機会はなかったですけどね。
だから、私がまだ現役の時に「西武のピッチャーの中で、一番ボールに勢いがあるのって誰?」と審判に聞いたことがあるんですが、もっとも多かったのは渡辺智男で、その次がナベちゃんでした。

【左の工藤、右の渡辺の印象の違い】

――球種としては150km近くの真っ直ぐを軸に、スライダーやカーブ、フォークも投げていましたが、石毛さんから見て渡辺さんの一番のボールは何だったと思いますか?

石毛 やはり真っ直ぐです。ピッチングの組み立ての中心は真っ直ぐで、変化球を織り交ぜていくスタイルでした。当時のピッチャーはナベちゃんに限らず、アマチュア時代は真っ直ぐとカーブで組み立てていて、プロに入ってスライダーや、ちょっとフォークを覚えたりという感じのピッチャーが多かったです。

――右の渡辺さんと左の工藤さんは、左右のエースとして長くチームを支えました。2人は切磋琢磨する関係だったんですか?

石毛 年齢が近く、入団したタイミングも近いし、2人とも若くしてベンチに入っていましたからね。ただ、声をかけた時の反応は全然違いましたよ。

工藤はひと言、ふた言くらい何かを言って、少し突っかかってくる時もありました(笑)。一方でナベちゃんは「はい!」と返事するなど、どちらかというと、ハキハキして素直に言うことを聞くタイプでした。ちょっとした質問にも、しっかり答えてくれた印象がありますね。

 あと、工藤は隔年で故障していたイメージだけど、ナベちゃんはほとんど休むことなくローテを守ってくれました。おかげで他のピッチャーが少し休めた側面もあったと思います。当時は「先発ピッチャーは完投するもの」という時代でしたが、体が丈夫だったんでしょうね。


――ちなみに、当時の西武は毎年のように日本シリーズに出ていたためピッチャーがバッターボックスに立つ機会もあり、どのピッチャーもバッティングがいいイメージがありました。

石毛 ナベちゃんは、そんなにバッティングはよくなかったと思いますよ。東尾修さんをはじめ、工藤や渡辺智男、潮崎哲也なんかはよかったけど、ナベちゃんやタケちゃん(石井丈裕)はあまりよくなかった記憶があります。

【西武と近鉄のダブルヘッダーで「「ナベちゃんは攻められない」】

――石毛さんはマウンド上の渡辺さんをショートやサードから見守っていたと思いますが、一番印象に残っている場面は?

石毛 1989年(10月12日の)の近鉄とのダブルヘッダーですね。西武、近鉄、オリックスが1ゲーム差にひしめく状況だったのですが、近鉄が優勝するためにはダブルヘッダーで西武に連勝しなければいけなかった。

 そこで西武は、近鉄の(ラルフ・)ブライアントに4打席連続でホームランを打たれるなどして2連敗。

近鉄に優勝を持っていかれてしまったのですが、そのブライアントの3本目(ダブルヘッダー1試合目の勝ち越しホームラン)を打たれたのがナベちゃんでした。

 ナベちゃんは打たれた瞬間にマウンドで膝をガクッとついていましたが、その時に自分が言ったのは「ナベちゃんは責められないでしょ」ということ。ローテーションを守ってシーズン通して活躍してくれたわけだし、ベンチに戻ってから「あいつが打たれる分にはしゃあない」と周囲に伝えました。

――マウンド上では、何と声をかけましたか?

石毛 いやいや、言葉はないです。肩をポンッと叩いただけ。シーズンでのナベちゃんの活躍、仕事ぶりは誰もがわかっているわけですし、そのおかげで優勝争いができたわけですから。


「無事之名馬(ぶじこれめいば)」じゃないけど、そのシーズンだけではなく、ナベちゃんはずっと先発ローテーションを守ってくれた、常勝軍団と言われた西武の屋台骨。ピッチャー陣を支えてくれた大貢献者です。負けて卑屈になることもなく、サラっとしていて切り替えが早かった。ひとりの人間としても非常に接しやすいです。首脳陣から見ても使いやすいピッチャーだったと思いますし、頼りになる存在だったと思いますよ。

(後編:渡辺久信が西武の監督1年目しか優勝できなかった理由 「自主性」がもたらしたプラスとマイナス>>)

【プロフィール】
石毛宏典(いしげ・ひろみち)

1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。