消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者~中尾孝義(後編)

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【ドラ1を蹴るなんて、おまえはアホか!】

 1977年の秋。専修大3年生の中尾孝義は、新宿プリンスホテル総支配人の幅敏宏と面会。1年後にプリンスホテル野球部を結成し、79年から日本社会人野球連盟(現・日本野球連盟)に加盟する構想を聞かされ、入社の誘いを受けた。

全日本レベルの同期の選手たちとプレーすることに魅力を感じた中尾は、すぐに乗り気になっていた。

 1年後、中尾が4年生になった78年の秋、当然のようにプロからも誘いが来た。関係者を通じ、とくに熱心な中日がドラフト1位で指名することを知った。以前はプロ入りに反対していた父親も、ほかの親戚と同じく「プロに行かせたい派」に変わっていた。だが中尾はプリンス入社を決断し、中日に断りを入れる。父親は「ドラ1を蹴るなんて、おまえはアホか!」と激怒した。

 専修大監督の小林昭仁は「今まで世話になったほかの会社とのいきさつもあるし、いきなり中尾をくれと言われても困る」と当惑した。しかし、最終的には専修大から中尾に加えて投手の堀田一彦、外野手の漆畑和男と3人がプリンスに入社。秋のシーズンが終わり3人で合宿所を出る時、どこかアパートを一緒に借りて住もうとしていたら、プリンス側から思わぬ提案があった。

「幅さんが『新宿プリンスホテルに泊まりゃあいいじゃんよ。部屋用意するから泊まれ』って。食事はホテルのどこで食べても無料の伝票があって。

学校に通うのに『電車は危ねえからタクシーで行け』と。しかも"お小遣い"までいただいて。とんでもない好待遇だったんです」

 1期生ならではの歓待だったのか。ただ79年3月、入社後の静岡・下田キャンプでは立場が逆転。下田プリンスに宿泊しつつ、オフの社業に備える研修でベッドメイキング、テーブルマナーなどを覚えた。グラウンドでは助監督の石山建一から「都市対抗で優勝するのが目標だ。

そのために大学のスターを結集させ、注目を浴びながら強くしたい」と言われた。

「注目を浴びたぶん、東京都の大会でも『プリンスだけには勝たすな!』というのが合言葉だったみたいで......。いざ都市対抗の予選が始まったら、東芝府中に大差で負けて。敗者復活戦を勝ち上がっても、第三代表決定戦は電電東京に1点差で負けて終わりでした」

【補強選手として都市対抗に出場】

 それでも、中尾と内野手の中屋恵久男(早稲田大)は熊谷組、内野手の石毛宏典(駒澤大/元西武ほか)は東芝府中に補強されて都市対抗に出場。熊谷組が決勝まで勝ち進んだなか、4本塁打を放った中尾は久慈賞、中屋も若獅子賞を受賞した。同年から金属バットが採用され、大会全体で本塁打が急増したとはいえ(前年の23本から62本)、中尾の打棒は「すごい」のひと言だ。

「すごかったですね(笑)。

たしかに、金属バットでホームランが増えて、ロースコアの試合が少なくなりました。とくにプリンスの試合は打ち合いが多くて。僕のリードも悪かったんだろうけど、キャッチャーとしては国際大会での経験がいい勉強になりました。たとえば、リーチが長い外国人の選手はインコースの速い球は打てない、ということとか」

 都市対抗のあと、中尾、中屋、石毛の3人は全日本メンバーに選ばれ、キューバで行なわれた第4回インターコンチネンタルカップに出場。プロでの中尾は徹底してインコースを突くリードが特徴だったが、その素地はプリンス時代、世界を相手に戦った時にできていた。
 
「もちろん100%のリードなんてないですから、ベースから離れて立っている選手がいたら考えないといけない。

それでもインコースなのか、アウトコースなのか、変化球なのか。変化球も小さい変化なのか、大きい変化なのか、速いのか、遅いのかと考えて自分の答えを出す。いろんな国の連中を相手にしたことで、キャッチャーとして成長させてもらいました」

 始動2年目の80年。プリンスホテルは第三代表で都市対抗初出場を果たす。課題の投手力強化に向け、ふたりの大型新人が加わっていた。ひとりはパドレスのドラフト2位指名を断って入社した左腕のデレク・タツノ(ハワイ大)。

もうひとりは法政大で活躍した本格派右腕の住友一哉(元近鉄)。中尾は正捕手として、とくに住友の技量を頼りにしていた。

「大事なところを任せられる存在でした。みんなまだ若いし、初めての都市対抗で緊張していたと思うけど、住友は1回戦の神戸製鋼戦、1対0で完封でしたから。2回戦は延長13回で新日鉄釜石に負けたけど、3対4。打ち合いじゃないし、ピッチャーはよく頑張ったと思います」

大学生の中尾孝義がプリンスホテルから受けた好待遇 食事はホテ...の画像はこちら >>

セ・リーグの捕手として初のMVP】

 この年は第26回の世界アマチュア野球選手権大会が日本で初開催され、中尾、中屋、石毛の3人が再び全日本で出場。貴重な経験を積んだが、同大会が8月に行なわれたため、本来は"真夏の球宴"の都市対抗は11月1日から開催された。同26日のドラフト会議寸前だったわけだが、この時、プリンスで1位指名が確実視されていたのが中尾と石毛だった。

「じつはね、僕が西武で1位っていう話だったんです。石毛はプリンスで3年やって西武から1位という話だったんだけど、いろんな事情で話が変わってきて、『石毛が2年でプロに行くことになったから、2位でおまえをいく、それでいいか?』って言われて。僕は『別にいいです。そのかわり、条件を石毛と一緒にしてください』とお願いしました」

 石毛が「西武ならプロ入り」と公言していたなか、いざドラフトでは西武と阪急が石毛を1位指名して競合。結局、西武監督の根本陸夫が"当たりくじ"を引き、入団が決まった。一方、中尾は2年前から追いかけていた中日が1位指名。西武は石毛と中尾の両獲りを狙っていたようだが、同じ西武グループのプリンスがそのために援護していたという。

「ドラフトの1カ月ぐらい前、僕はプリンスの寮を出るように言われて、『サンシャインシティプリンスに部屋を用意してあるから、そこに住んでくれ』と。他球団と接触されたくなかったんですね。だから電話も盗聴されて(笑)。しかも親からの電話だけつないでくれないから、親父が怒ってね。『そんな球団、絶対、行かせねえ!』って」

 チーム結成当初から、プリンスと西武の裏工作が疑われていたが、こんな形でホテルを利用する協力関係もあったということか......。しかし中尾は、ルールに則ったドラフトを経て中日に入団。高校、大学、社会人時代と同様に即戦力となり、2年目には正捕手としてリーグ優勝に大きく貢献。セ・リーグの捕手として初のMVPに選ばれた。

 人一倍の筋力があった反面、もともと腰が悪いうえに小柄で細身。にもかかわらず、常に全力プレーで力を抜かなかった。そのために故障しがちでフル稼働はできなかったが、走攻守すべてで鮮烈な印象を残した。93年限りで引退後は編成、コーチ、スカウトを各球団で歴任。台湾で指導した99年を含め、2016年まで1年も途切れることなく、球界での仕事を続けた。

 そして、17年から19年までは岩手・専大北上高で監督を務めた。中日時代の監督にして恩師、星野仙一から「プロが終わったらアマチュアに恩返しだ。底辺から野球界を盛り上げてくれ」と言われたことが、ずっと頭にあった。現在は、中尾とプリンスホテルを結びつけた慶大で指導している。

「これも何かの縁ですね。プリンスには2年だけでしたけど、あらためて今、世界のいろんな国を相手に戦ったのは大きかったと思います。そこで経験したことも含めて、僕からヒントを与えて、こういう方法もあったんだ、今までこんな考えなかったな、と選手たちが感じてくれたらいい。それで少しでもいいほうに変わってくれたら、指導者としてうれしいですね」
 
(=敬称略)