消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者~中島輝士(後編)

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 1987年の都市対抗野球大会でプリンスホテルは初のベスト4に進出。この快進撃に大きく貢献した4番・一塁の中島輝士(柳川高/元日本ハムほか)、2番・二塁の小川博文(拓大紅陵高/元オリックスほか)はともに優秀選手となり、8月24日から日本で開催されるアジア野球選手権大会の全日本メンバーに選出された。

 中島も小川も初の全日本入りだったが、東京・港区の合宿施設に社会人と大学生の連合メンバーが集結した初日。中島は監督の鈴木義信(慶應義塾大−東芝)に声をかけられた。

【何があっても4番から外さん】

「宿舎の横に公園があって、夜、ひとりでスイングしてたんです。そしたら鈴木さんが来て、まだ何も始まってないのに、『おまえはもうずっと4番から外さんから。何があっても絶対に外さない』って。そのひと言だけ言って、宿舎に戻られたんです。もうね、びっくりしたなんてもんじゃなかった。

 だって、僕は初めての全日本ですよ。どれだけ都市対抗で打ったところで、最初は控え選手から行くものです。4番候補の選手にしても、日本鋼管の金久保孝治(法政大)さんとか、日産自動車の鶴岡昌宏(東洋大)という左バッターがいたわけなんで」

 日本、韓国、台湾、中国、オーストラリアに、インド、グアムが初参加した大会。台湾が優勝して日本は2位に終わったなか、4番・中島は大会通算28打数20安打で驚異の打率.714をマーク。4本塁打、14打点で"アジアの三冠王"に輝いた。日本は台湾に3対9と敗れたことで優勝を逃したが、その一戦でも中島は奮闘して4打数4安打、2本塁打で全3得点を挙げた。

「結局、いきなり4番でも打てたんです(笑)。その後もある程度、打てたんですね。これは自分で分析してみると、世界大会で対戦するピッチャー、どちらかといえば、スライダー投手が多かった。要は、体から遠い、真ん中から外寄りの球は、腕が長い僕なんかは強いわけです。バットが届くから。
 
 反対に、インコースに投げられるピッチャーには強くなかったですけど、僕、ローボールヒッターで。

当時、野茂(英雄・新日鉄堺/元近鉄ほか)とか潮崎(哲也・松下電器/元西武)が落ちる球を持ってましたけど、落ちてもすくえるわけですよ。そうして対応できたのも、世界大会で数字を残せた理由ですね」

 実績こそ少ない中島だが、チームの中心選手として都市対抗、全日本で好結果を出せば、自ずとその先が見えてくる。81年に入社して7年目、25歳になっていた。プロに入るとしたら、ギリギリと見られる年齢だ。

「全日本に入った時点でね、ある球団から『オリンピックは金にならないから、プロに来い』と、そういう話があると知りました。僕はもう行く気満々です。

そしたら、山本英一郎さんに呼ばれてね。キューバが大好きな方で、カストロ首相と何度も面談している間柄で」

【堤義明の鶴の一声でプリンスに残留】

 山本は1919年生まれで当時68歳。戦前から慶應義塾大、社会人の鐘淵紡績(鐘紡)で外野手としてプレーし、戦後は審判を務めた。その後、世界のアマ球界との交流を進め、84年ロサンゼルス五輪での野球の公開競技入りに尽力。日本は88年ソウル五輪出場を決めていたが、山本としては、4番・中島がいない全日本チームは考えられなかった。

「新宿プリンスホテルで2カ月ぐらい、毎週、山本さんとマンツーマンで話しました。僕を引き留めるための交渉というか、説得され続けたんです。

そのうちまた全日本に選ばれて、10月にキューバで開催されるインターコンチネンタルカップに行く、行かない、という話になって」

 野球部監督だった石山建一によれば、当時のプリンスホテル社長である山口弘毅は中島について「年齢的にプロに行かせないとかわいそうだ」と言っていたという。山本から「オリンピックの4番で中島くんを残してほしい」と要請されたが、山口は「行かせてやれ」とプロ入りを容認した。残る問題は、前社長でもある西武グループ総帥の堤義明がOKを出すかどうかだった。

「堤さんはJOCの会長まで務めた方です。最終的に山本さんが堤さんに話して、鶴の一声ですよ。『残れ』と。

結局、キューバに行くことになって、翌年9月のソウルオリンピックまでずっと全日本の4番。それで僕、プロ入りが遅くなりました」

 ソウル五輪でも中島は全5試合で打点を挙げ、21打数10安打、打率.486、1本塁打。日本の銀メダル獲得に大きく貢献している。プロ入りは遅れても、五輪のメダルは野球人生のなかで誇れるものではなかろうか。

「いやいや、それは全然ないです。かっこつけじゃないけど、今、僕が思うのは、プロでプレーした人間はプロの成績がすべてだ、ということです。社会人時代の成績よりもプロでの成績がよくなかったら、プロに行きたくて行けなかったヤツに失礼なんでね」

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92年に自己最多の13本塁打を放ち、オールスターにも出場した中島輝士

【開幕戦サヨナラ本塁打の衝撃デビュー】

 88年11月のドラフト。中島は日本ハム、ダイエー(現・ソフトバンク)から1位指名され、抽選の結果、日本ハムが当たりくじを引いた。初の入団交渉では球団史上最高の条件となる契約金7000万円、年俸720万円を提示されたが合意せず。交渉後、「オレは全日本の4番打者。日本一の契約金と年俸をくれ」と中島が吹っかけたように報道されたが、これは事実なのか。

「監督の石山さんに言わされたんです。マスコミが注目するからって。裏で球団常務の大沢(啓二)さんと話もできてたみたいで。僕自身は何でもよかったけど、後進のためにもね。『プリンスはこれだけ払わないと獲れないよ、でも、それだけ獲る値打ちがあるんだよ』というイメージを植えつけるんだと。やっぱり、石山さんは宣伝部長ですね(笑)」

 結局、中島は契約金8000万円、年俸840万円で入団(金額はすべて推定)。89年のダイエーとの開幕戦、7番・右翼で先発出場すると9回裏、新人では史上2人目の開幕戦サヨナラ本塁打。衝撃デビューを果たしたが、1年目はケガもあり81試合で9本塁打、打率.233に終わる。4年目の92年に初の規定打席到達で13本塁打、球宴も初出場したが、その年がピークだった。

「同期の藤井(康雄)みたいに成績残せなかったのは、努力が足りなかったのかなと。まさに、プロに行けなかったヤツに失礼ですよね。日本ハムで7年、近鉄で3年やったけど、最後の2年は干されて完全燃焼もしてないし、悔いが残りました。でも、そういうこともあって、自分は今、指導者としてできているんだよなと」

 98年限りで現役を引退した中島は翌年に近鉄でコーチを務め、2000年からスカウトに転身。03年から日本ハムでスカウト、コーチ、11年からは台湾、14年からは四国アイランドリーグplus、17年は韓国で指導してきた。そして20年、京滋大学野球連盟に所属する京都先端科学大硬式野球部の監督に就任。22年秋のリーグ戦でチームを優勝に導いている。

「いろんな野球界に行かせてもらったから、また次はどうしようかって考える自分がいます。本当にこれから人生どうなるかわからないけど、今は今の自分でやるしかないと思います。それにしても、僕みたいに高校出で大学野球の監督やっている人は全然いないんです。そこは流れなのか、運命なのか」

 運命だとしたら、野球人生のなかで、プリンスホテルはどんな位置づけになるのか。

「たしかにすぐプロに行きたかったし、ちょっと長くいすぎたけど、楽しかった。プリンスで社会人野球をやらせてもらって楽しかった、ということがいちばんです」

(=敬称略)

中島輝士(なかじま・てるし)/1962年7月27日、佐賀県出身。柳川高、プリンスホテルを経て、1988年ドラフト1位で日本ハムに入団。 92年は115試合に出場し、打率.290、13本塁打、66打点の成績を残し、オールスターにも出場。96年に近鉄へ移籍。 98年に現役を引退したあとは近鉄、日本ハムでコーチ、スカウトを経験。その後も台湾、韓国、四国アイランドリーグplusで指導者として活躍し、20年から京都先端科学大学の野球部の監督に就任