河埜和正インタビュー(後編)

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 河埜和正氏がレギュラーとして試合に出るようになったのは1974年。その年、巨人はV10を逃し、長嶋茂雄氏が引退。

翌年から巨人の監督となるも球団史上初の最下位を経験。さらに80年には王貞治氏が現役を引退し、巨人は新たな時代へと突入した。そんな激動の時代に、河埜氏は巨人の遊撃手として活躍。自身は86年で引退するが、17年間のプロ野球人生で最も印象に残っていることとは?

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【壮絶だった地獄の伊東キャンプ】

── 74年は長嶋茂雄さんと三遊間を守り、ダイヤモンドクラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞されました。

河埜 長嶋さんは捕れる、捕れないは別にして、平気で三遊間のゴロにダッシュしてきました。だから、「自分が絶対に捕って、ゴロを処理するんだ」という気持ちで臨んでいました。ゴロを捕って送球しようとしたら、目の前に長嶋さんがいることもたびたびありました。

長嶋さんから「河埜、ごめん」って言われると、「いえ、とんでもないです」としか言えませんよね(笑)。あと守備で言うと、三遊間の深い位置から一塁への大遠投も、肩に自信があった私のひとつの見せどころだと思っていました。

── 一塁には王貞治さんがいて、二塁手は土井正三さんでした。

河埜 それにしても隣に長嶋さんがいて、一塁に投げれば王さんが捕ってくれる。王さんに「強肩がおまえの持ち味だから、少々逸れてもいいから思いきって投げてこい。でも、球が強いから手が痛いよ」と言ってもらって、土井さんには「二塁ベース後方にゴロが来た時はバックハンドでグラブトスするから、おまえが強い球を投げてくれな」と。

名手のみなさんと一緒に守れて、いい時代にプレーできたなと。あと74年の長嶋さんの引退試合の「我が巨人軍は永遠に不滅です」の言葉も同じグラウンドで聞きましたし、私は幸せ者ですよね。

── V10を逃し、現役引退した長嶋さんが巨人の監督に就任しました。

河埜 元気に明るく、一生懸命やるぞという長嶋監督の「クリーンベースボール」は空回りして、まさかの最下位に。それがあったので、翌年の優勝は劇的でした。

── さらに77年も優勝し、連覇を果たされます。

河埜 77年は、王さんがハンク・アーロンの記録を破る通算756号の世界記録を樹立するなど、記憶に残るシーズンになりました。個人的には、77年は打率.294をマークし、ベストナインに選ばれ、日本シリーズでは敢闘賞に輝くなど、自信がついた1年でしたね。

── しかし78年は2位、79年は5位に終わり、チーム再建のために「地獄の伊東キャンプ」が敢行されたわけですね。

河埜 私が27歳で最年長でした。投手陣は江川卓、西本聖......、野手陣は原辰徳中畑清、篠塚利夫(現・和典)、山倉和博ら総勢18名が秋季キャンプに挑みました。まあ、大変でしたね。

日中は打撃と守備。暗くなったら坂道ランニング。夕食のあとはバットスイング。それが3週間続いたのです。「来年はオープン戦から全部勝つつもりでやるぞ」という意気込みでした。あの伊東キャンプが、その後のチームの礎になったのは間違いないですね。

── 当時の長嶋監督は、投手に対して「逃げの投球をするな!」と、ベンチ裏で気合いを入れることもあったと聞きます。

河埜 とても熱い方でしたね。火鉢を蹴飛ばして骨折したこともありました。

【叶わなかった東京ドームでのプレー】

── その長嶋監督ですが、80年も優勝を逃し(3位)、志半ばにして退陣となりました。そして81年、藤田元司新監督のもと、巨人は8年ぶりの日本一に輝きます。

河埜 藤田さんは紳士な方ですが、「瞬間湯沸かし器」の異名があるなど、激しさも兼ね備えていました。

81年はおもに2番を任されました。今はエンゼルス大谷翔平選手に代表されるように、2番はホームラン打者が座ることがありますが、当時は完全に"つなぎ役"でした。1番を打つ松本匡史の盗塁を助け、そしてバントで送る。

── 81年は全130試合に出場し、打率.264、16本塁打、27盗塁、21犠打(リーグトップ)の成績でした。

河埜 バントがうまくなるにつれ、打撃力が向上しました。「ボールをよく見る」ということが影響したのかもしれないですね。81年はV9戦士のほとんどが引退されていて、自分が若手に声をかけなければいけない立場になっていました。その私が"つなぎ役"としてプレーし、篠塚、原、中畑のクリーンアップがランナーを還してくれるとホッとしましたね。

 思えば、土井正三さんも高田繁さんも「自分の犠牲バントから、ON(王貞治、長嶋茂雄)が打って得点に結びつくのは最高の仕事だよ」と言っていたのを思い出します。自分の仕事をきちんとこなしていれば、見ている人は見ていてくれる。V9の川上(哲治)監督時代からの「フォア・ザ・チーム」の系譜ですよね。

── 83年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは西武と球史に残る死闘を演じました。

河埜 第1戦で松沼博久から本塁打を打ちました。あのシリーズはどっちに流れがいくかわからないなか、第7戦までもつれ込んだ。まさに死闘でしたが、紙一重の差で敗れてしまいました。勝つチャンスがあっただけに悔しかったですね。

── 84年には王貞治氏が監督に就任しました。

河埜 王さんにはすごく気を遣っていただいたのですが、思うような活躍ができず、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。私としては、東京ドームが完成する88年までプレーしたかったのですが、86年を最後に現役に幕を閉じました。

── 17年間の現役生活で、一番印象に残っていることは何ですか。

河埜 85年4月16日、甲子園での阪神戦の落球です。センターのウォーレン・クロマティが少しうしろに守っていたのですが、佐野仙好の飛球を深追いしてしまって......それで夜露に足をとられて落球し、逆転負けのきっかけをつくってしまった。前日にナイター練習をしていたのに、中間飛球は外野に任せればいいのに、守備範囲が広いと自負していたのに......後悔ばかりでした。そして翌日にあの"バックスクリーン3連発(ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布")です。私は守備で一軍に上がった人間だけに、覚えているのはそういうことですね。

── 巨人では坂本勇人選手に更新されるまで、「遊撃手での1370試合出場」は球団記録でした。ファンには、超強肩、"V9"と"巨人新時代"をつないだ名バイプレーヤーとしての姿が目に焼きついています。

河埜 ありがとうございます。先程も言いましたが、本当にいい時代にプレーできたと思いますし、17年の現役生活は誇りにしたいですね。

おわり


河埜和正(こうの・かずまさ)/1951年11月7日、愛媛県生まれ。69年、八幡浜工高からドラフト6位で巨人に入団。強肩・巧打の遊撃手として活躍し、74年にダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)、77年にベストナインを獲得した。86年のシーズンを最後に現役引退。その後は、巨人のコーチ、スカウトを歴任し、巨人が運営する「ジャイアンツ・ベースボールアカデミー」の校長も務めた