アントニオ猪木 一周忌

佐山聡が語る"燃える闘魂"(1)

 国民的な人気を獲得したプロレスラーで参議院議員も務めた"燃える闘魂"アントニオ猪木(本名・猪木寛至)さんが79歳で亡くなってから、10月1日で一周忌を迎える。1972年1月に新日本プロレスを旗揚げしてから、幾多の弟子を育ててきた猪木さん。

中でも自身に匹敵するほどの人気を集め、信頼を寄せていたのが初代タイガーマスクの佐山聡だ。

 師匠の訃報から1年。佐山が今、"燃える闘魂"との秘話を明かす。短期連載の1回目は、猪木さんに憧れるきっかけ、新日本への入門とそこでの練習、最後の会話などを語った。

【アントニオ猪木 一周忌】佐山聡が明かす最後の会話 「会えて...の画像はこちら >>

【猪木さんに「ひと目ぼれ」】

 山口県下関市で生まれ育った佐山。人生を決めたのは幼少の時、ブラウン管に映った猪木さんの闘いだった。

「実は、最初はミル・マスカラスとかドリー・ファンク・ジュニアが好きだったんです。

だけど、猪木さんが日本プロレスから独立して新日本を作って、ストロングスタイルを掲げた姿に共鳴しました。

 そこは、もう、ひと目ぼれです。理屈じゃないです。『絶対にガチで闘ったら猪木さんが一番強い』とわかりました。子供の目、心は純粋ですから、そこに何の邪心もなかったですね。そこからは毎週、テレビで猪木さんの試合を見るたびに『この人のように強くなりたい』と、ただそれだけを考えて目指す毎日が始まりました」

 小学2年時から柔道を学び、山口県立水産高校に進学するとレスリング部に入部した。
すべては「アントニオ猪木のように強くなりたい」という目標に向かうためだった。そして高校を1年で中退すると、1975年に新日本に入門した。

 翌年の5月28日、後楽園ホールでの魁勝司戦でデビューを果たすと、ほどなく猪木さんの付け人となった。その後、メキシコ、イギリスの海外遠征を経ての1981年4月23日、蔵前国技館でのダイナマイト・キッド戦で「タイガーマスク」となり、日本列島に空前のブームを巻き起こすことになる。

【猪木さんは「例えるなら軟体動物」】

 少年時代に憧れ、プロレスラーへ導いた猪木さんが亡くなってから一年。佐山は、最も胸に迫る師匠との思い出を明かした。

「一緒に練習をやったことが最高の思い出です。

若手の時代もタイガーマスクになってからも、道場、地方の体育館......しょっちゅう2人で練習をしていました。猪木さんとの練習は楽しかった。言葉での会話は少ないんです。だけど、スパーリングをやりながら、言葉はなくても語り合えた。それは光栄なことでした」

 佐山が猪木さんと初めてスパーリングを行なったのはデビュー前の練習生時代。以来、猪木さんとの練習で強さを磨く日々が始まった。
そうして相対すると、佐山が子供の頃に「ガチなら一番強い」と信じた通りの猪木さんの実力を感じたという。

「猪木さんは一番、強かった。当時、スパーリングをやっても新日本で勝てる人は誰もいませんでした。組むとパワーは感じないんですが、柔らかくて、例えるなら軟体動物のようにピタっとくっついてくるんです。そして関節が異常に柔らかくて、アキレス腱固めなどは絶対に極まらなかった。首絞めも極まりません。
あの柔らかさは特別でした」

 思い出すのはスパーリングでの強さだけではない。ヒンズースクワット、プッシュアップなど基礎練習もそう。当時の新日本は、道場にトランプが用意され、カードをめくった数と同じ回数を行なうという練習方法だった。

「ただ、ジョーカーが出ると特別で、例えば60回とか、他のカードより多い回数をやらないといけない決まりなんです。ある時、僕がひとりでトランプをめくって練習をしていたらジョーカーが出て、『今日は疲れたから、回数を重ねるのはやめよう』と思ったら、いきなり後ろから猪木さんが『お前、やめただろ!』って注意されたんです。僕の練習を後ろからこっそり見ていたんですね。
あの時はびっくりしましたし、2人で大笑いしました」

【猪木さんとの最後の会話で伝えたこと】

 他にも佐山からは、猪木さんとの練習での思い出が溢れるように出てきた。65歳を迎えた佐山は、その光景を昨日のことのように鮮明に語った。師匠との練習を重ねた日々は、それほど濃密で貴重で大切な記憶なのだろう。

 その中で、猪木さんと最後に会った日のことについても明かした。

 5年前の2018年。その年の夏、佐山は原因不明の病で体調を悪化させた。複数の病院で診察を受け、翌年1月に「パーキンソン病の疑い」との診断は出たが、当時は正確な病名がわからない状況だった。一方の猪木さんも、心アミロイドーシスという難病を発症していた。

 そんな最中、佐山は猪木さんから食事に招かれた。場所は六本木の中華料理店だった。

「僕も病気でしたから、『その日が最後だ』とは思いませんでしたが『猪木さんとは体調が悪いから、近々、もう会えなくなるかもしれない』と頭をよぎりました」

 食事が進み会話を重ねる中、佐山は猪木さんにこう伝えた。

「会えて幸せでした。会えてよかったです」

 この思いは、あらかじめ伝えようと考えていたわけではなかったという。

「猪木さんと話をするうちに自然と出てきました。あの時、僕は『会えて幸せでした』という思いを、ずっと猪木さんに話しました」

 猪木さんは、佐山の言葉に何も言わず黙ってうなずいていたという。それは、2人が道場でスパーリングを重ねた時の光景と同じだった。多くの言葉を重ねずとも、2人にだけわかる世界があった。「アントニオ猪木」と「佐山聡」。師匠と弟子、そして天才同士だからこそ理解し合える境地だった。

「死に目には会えなかったんですが、あの5年前に直接、自分の思いを猪木さんに伝えることができたので、僕の中で思い残すことはありません」

 そう語る佐山の声は震えていた。

(第2回:アントニオ猪木が「町でケンカしてこい!」 佐山聡がある弟子への叫びに見た「猪木イズム」の原点>>)

【プロフィール】

佐山聡(さやま・さとる)

1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。