ソフトバンクは12月19日、西武からFA宣言した山川穂高の獲得を発表し、同日午後に福岡市内のPayPayドームで入団会見を行なった。会見の冒頭、山川は自らの不祥事を謝罪したほか、「マイナスからのスタート」「野球で結果を出して許してくださいとは思っていません。

僕が根本的に変わらないといけない」と話すなど、現在の心境を語った。

 山川のFA移籍に対しては野球ファンの間でも厳しい意見が飛び交い、ソフトバンクに対しても批判の声が多数寄せられているという。かつての西武黄金時代、チームリーダーとして長らく活躍した石毛宏典氏に、同問題についての見解を聞いた。

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山川穂高のFA移籍に、石毛宏典はファンを納得させるためのルー...の画像はこちら >>

【石毛は山川の移籍に何を思ったのか】

――今回の山川選手やソフトバンクの判断などについてどう思われますか?

石毛宏典(以下:石毛) この1年間、山川は西武の選手として何も仕事をしていない中で年俸をもらい、球団スタッフやチームメイトなど多くの関係者に迷惑をかけ、ファンを失望させてしまいました。

 そういう意味では、禊(みそぎ)じゃないけれど、来季は西武の選手として死にものぐるいで働く。人情的に考えればそうするべきだったんじゃないのかなと。

仮にそうした場合でも批判されていたとは思いますが、「しっかりと反省しているんだな。それなら頑張れよ」とエールを送ってくれるファンはいたと思うんです。

 一方、山川の獲得を決断したソフトバンクは、ここ数年は優勝を逃していて背に腹は代えられない状況なのでしょう。ただ、人情的に考えれば、仮に山川の獲得を以前から検討していたとしても、「もう1年は西武で頑張れ」「今の状況では獲れない」という判断があってもよかったのかな、と個人的には思います。

【ペナルティを決めておくべき】

――8月29日に嫌疑不十分で不起訴となった後も、出場停止処分は続いていました。

石毛 不起訴という結果が出たのであれば、シーズン中に復帰させてもよかったと思うんです。

山川をチームが勝つための戦力として考えていたのであれば、ですよ。もちろん、その場合も復帰前に謝罪の場を設けることが前提です。そうした場合でも批判の声は当然あると思いますし、世論を考慮しての処分継続だったとも思いますが......。

 今の時代は「こうしたら、こう叩かれてしまう」という考えが先に立ちますよね。今回のようなケースではなおさらだと思います。叩かれるのを避けるために、「山川を試合に出すのはやめておこう」という判断になるじゃないですか。

だけど、試合に出したら「山川頑張れよ」という声も中にはあるかもしれません。こういう時代だから慎重にならざるをえないとは思いますが、彼は有罪判決を受けたわけではありませんから。

――不祥事の処分期間中の移籍という異例の事態。西武で下されていた公式戦出場停止処分が、ソフトバンクでは解除される方向です。

石毛 西武ファンとすればモヤモヤするでしょうし、納得できない部分はあるでしょうね。なので、今回のようなケースになった時に適用する新しいルールを決めればいいんです。

例えば、出場停止処分中は他球団へ移籍できないようにするとか、FA宣言自体を1年先延ばしにするとか......今回のようなケースになった時にある程度納得のいく12球団共通のペナルティを決めておくべきだと思います。

 そういう明確なものがない曖昧な状況下で、ああだこうだと言っても仕方がありません。結局のところ人情論、感情論でものを言い合うだけになってしまいます。

――今回のような不祥事を未然に防ぐ対策も必要ですが、起きてしまった後の共通のペナルティも必要かもしれませんね。ちなみに、西武は主力選手のFA移籍が続いています。このことについてはどう思われますか?

石毛 FA自体は選手が努力して得た権利ですからね。

ただ、若手が育つ前に主力選手が立て続けに居なくなるのはチームとして当然痛いです。特に野手陣は主力選手の移籍が多くて厳しい時期が続いていますね。

 それでも今年は、以前から個人的に期待している渡部健人をはじめ、蛭間拓哉や山村崇嘉ら近い将来に期待が持てる選手がいいものを見せてくれました。ピッチャー陣は年々層が厚くなってきた。選手ひとりひとりが「自分がチームを引っ張っていくんだ」という気持ちを持って取り組んでいけば、必ず状況は好転していきます。来季は若い選手たちの台頭とチームの巻き返しを期待しています。

【プロフィール】

石毛宏典(いしげ・ひろみち)

1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。