短期連載:証言で綴る侍ジャパン世界一達成秘話(6)

 第5回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で栗山英樹監督率いる侍ジャパンは、2009年以来14年ぶり3度目の優勝を果たした。世界一の軌跡を選手、首脳陣たちの証言とともに振り返ってみたい。

「これはいよいよ逃げられん」WBC準決勝で牧原大成が明かす幻...の画像はこちら >>

【1ミリも考えていなかった代表入り】

 WBCの開幕まであと12日という2023年2月25日。日本代表は宮崎でホークスとの強化試合を行なった。その時、ひときわ目立っていたのはホークスで1番を打ち、センターを守っていた牧原大成だった。

 初回、佐々木朗希から内野安打で出塁、すかさず盗塁を仕掛ける。ここは日本代表の甲斐拓也に阻まれたものの、3回には源田壮亮の左中間への当たりをスーパーキャッチ。あらかじめ左に寄っていた守備位置と素早いスタート、一直線に打球へチャージして、飛び込みながらキャッチする球際の強さも見せつけた。6回にはタイムリーとなるツーベースを放って、日本代表を率いる栗山英樹監督の視線を釘づけにした。

牧原が言う。

「いやぁ、あの時は自分が代表に入るかもしれないなんて1ミリも思っていませんでした。ただ、せっかくトップチームと試合ができる機会があったんですから、何か自分も目立ちたいなという気持ちはありましたね。結果、楽しみながら思いっきりやってやろうという気持ちが、ああいうプレーにつながったのかもしれません」

 鈴木誠也が故障で代表を辞退、代替選手の緊急招集を迫られていた栗山監督は、牧原を選んで声をかけた。牧原にとってはプロ3年目の2014年、21U野球ワールドカップで主将を任されて以来の日本代表だった。

「いま思えば、アンダー21に選ばれた時は日の丸を背負って戦うということをまだ感じられていなかったような気がします。

これが最初で最後の日本代表だろうな、なんて考えていて、僕はトップチームに入ることは一生ないだろうなと思っていたんです」

 だから牧原は即答できなかった。あまりに突然のオファーに、一晩、眠れない夜を過ごしたのだという。

「もちろん、行けるなら行きたいという気持ちはありました。それでも僕は、性格的に失敗した時のことを考えてしまうんです。もし自分が行ったとしたら、選ばれた理由は守備や走塁じゃないですか。もしエラーなんかしたらどうしようとか、牽制で刺されたらどうなるんだろうとか、そんなふうに考えたら普通にプレーできなくなるよなって、考えれば考えるだけネガティブなことしか浮かばない。

やっぱり行かないほうがいいのかなって結論に傾きながら、翌朝、球場へ行ったんです。

 そうしたら(コーチの)斉藤和巳さんが来られて、『決まったか』って......『いやぁ、行かないほうがいいですかね』と言ったら、すかさず『バカか、そんな経験ないぞ』みたいに言われて、お尻を叩かれたんです。たぶん、あのままひとりで考えていたら、行かないという答えになっていたと思います。和巳さんにああやって言ってもらえて本当によかった......いい結果に転ぼうが、よくない結果だろうが、一生に一度しか味わえない経験だったということは間違いありませんからね」

 しかし、遅ればせながら日本代表に合流した牧原は、最初、チームメイトに対して気後れしてしまったのだという。

「歳で言えばわりと上のほうでしたけど、すごい選手ばっかりなんで、気安くしゃべりかけられないじゃないですか(笑)。チームに合流した直後の大阪で決起集会があったんですけど、その時、席をクジで決めたんです。

そうしたら僕、ダルさん(ダルビッシュ有)の隣になった。『うわっ、マジか』と思いました。

 僕、ただでさえ人見知りなのに、初っ端からダルさんの隣なんて、どうしようと思っていたら、ダルさんからいろいろ話しかけてくれて......それも野球の話じゃなく、『お酒は何が好きなの』とか、いろいろ質問してくれたんです。そのおかげですごくしゃべりやすくて、お酒の質問にも『何でも好きです』とか、意味のないことを答えちゃっていましたね(笑)」

【失敗したらパスポートを捨てなきゃならん】

 1次ラウンド、中国戦と韓国戦ではラーズ・ヌートバーの代走から守備固め、チェコ戦ではヌートバーに変わってセンターに入ったあと、ヒットを放つ。オーストラリア戦では近藤健介に変わってライトに入り、準々決勝のイタリア戦でも吉田正尚の代わりにレフトを守った。同時に、ケガで離脱した源田壮亮のバックアップとして試合前にショートでノックを受けるなど、牧原はユーティリティーの仕事を完璧にこなしていく。

 そんな牧原に、"大役"が待ち受けていた。

 マイアミで行なわれた準決勝は4−5とメキシコに1点のリードを許して、日本は9回裏の攻撃を迎えていた。ここで先頭の大谷翔平がツーベースヒットを放ち、吉田正尚が打席に入る。ボールが先行したところで、もしフォアボールとなれば無死一、二塁となる場面だ。ベンチとしては送りバントも考えるケースだが、続くバッターは村上宗隆。バントをするなら村上よりも適任者がいると、準備をしておくよう城石憲之コーチに耳打ちされたのが牧原だった。

牧原が当時をこう振り返った。

「代打でバントって経験がないんですよ。しかも自分自身、バントは得意じゃない。WBCという負けたら次がない試合では、あのバントがすごくうまい源田(壮亮)でさえ、2球も失敗したじゃないですか。最後はスリーバントを成功させるんですけど、あの源田が一発で決められないのに......城石さんに『翔平が出たら(代打でバントが)あるからな』と言われた瞬間、めちゃくちゃ緊張しちゃいました。『えっ、僕ですか? マジッすか、バント下手ですよ』って(笑)。でも大丈夫だからとか言われて準備していたら、翔平がツーベースを打った。ノーアウト二塁なら、次の正尚が引っ張って翔平を三塁へ進めてくれればバントはないと思っていたら、正尚がボール球を選んで、スリーボールになった。ベンチはもう大盛り上がりです。

 でも、僕だけは『うわっ、これはいよいよ逃げられん』と覚悟を決めてベンチでヘルメットをかぶったら、フォアボールです。もともとネガティブな僕は『あー終わった、もうなるようになれ』という心境でした(笑)。失敗したらパスポートを捨てなきゃならん、日本には帰れん、プレッシャー、デカっと思っていました。そもそもバントって、僕のなかでは一番難しいという感覚なんです。だって求められるのは100パーセントじゃないですか。打つほうは3割打てれば一流でしょ。7回は失敗できるんです。でもバントは10割ですからね。僕にとってはヒットを打つことよりも難しいんです」

 しかし、牧原が腹を括ったところで代打は取り消される。栗山監督が村上に任せることにしたのだ。そして、あの逆転サヨナラ打が飛び出す──。

「代表入りを迷っていた時、ネガティブなことばっかりが浮かんだって言いましたよね。でもね、僕、決勝の最後の場面をセンターから見ているんです。大谷、トラウトの対決を、センターという誰も見られない真後ろから見られました。スライダー、めっちゃくちゃ曲がってましたよ。守っていて飛んでくる気がしませんでしたから......もちろんネガティブな僕ですから、飛んでくるなよ、と思っていました(笑)。ただ同時に、センターにトラウトの打球が飛んできて、僕が捕って試合が終わったら、その場面の映像はきっと何回も流されるんで、それも悪くないかな、なんてことも思っていました。少しはポジティブになれたのかもしれませんね(笑)」