尾花高夫インタビュー(後編)

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 尾花高夫氏の長い指導者生活のなかでも、とくに濃密な時間を過ごしたのが王貞治監督のダイエー時代ではないだろうか。コーチ就任1年目にしてチームを球団創設初の優勝に導き、ホークス黄金時代の礎を築いた。

尾花氏が当時を述懐する。

王貞治監督と大喧嘩をした尾花高夫 辞表願を提出するも「何だい...の画像はこちら >>

【王監督からコーチ打診の直電】

── 王貞治監督のもとで投手コーチを務めたダイエーの7年間は、特筆ものだと感じました。

尾花 野村克也監督とともにヤクルトを退団した98年オフ、王さんから直接電話がありました。最初はまさかと思って「失礼ですが、どちらの王さんですか?」と聞きました。すると「福岡ダイエーホークスの監督を務めております王貞治です」と。私は受話器を握りしめたまま直立不動です(笑)。

── 王監督との一番の思い出は何でしょうか。

尾花 やはり99年の優勝です。この年、王監督と大喧嘩をしたのです。忘れもしない99年9月11日。2位の西武に0.5ゲーム差まで縮められ、その試合に負ければ首位陥落です。試合前、いつものように監督室で"投手交代のシミュレーション"の打合せをしていました。それまで王監督は、試合中盤まではチャンスがあっても送りバントで走者を進める作戦をとっていませんでした。

ただこの試合だけは絶対に落とせないので、「早い回でもチャンスがあったらバントで送って、1点ずつ積み重ねる野球をお願いします」と言い、王監督も「わかった」と。そこまではよかったのです。

── 続きがあるわけですね。

尾花 その後も会話は続き「これまでも早い回にバントで送っていれば、勝てた試合は5、6試合あったかもしれません」と例に出したつもりが、王監督は采配批判と受け取って激怒したのです。私も慌てて「いえ、そういうつもりではなく、あくまで一例として話したまでです。お気に触りましたら申し訳ございません」と。

 しかし、話をしているうちに私も頭に血が上ってきてしまい、「私の言っていることが間違っているのですか!」と口に出してしまったんです。王監督は腕を組み、しばらく考え込んだあと「わかった。今日は君の言うとおりにやろうじゃないか」と。ミーティングでも「今日はチャンスがあったら、初回からでもバントで送って、1点ずつ積み重ねる野球をやるからサインを見落とさないでくれ」と話してくれました。実際、初回から送りバントをして、この試合を4対1で勝利。その後も快進撃を続け、9月25日に待ちわびた瞬間(ダイエー創設初優勝)を迎えたのです。

── 9月11日の大喧嘩が、結果としてターニングポイントになったわけですね。

尾花 日本シリーズでも中日を4勝1敗で下し、日本一を達成しました。しかしシリーズが終わり、私は名古屋のホテルの監督の部屋に行って"辞職願"を提出しました。他意はなかったにせよ、結果的に王監督の采配に口を出す"越権行為"をしてしまった。その責任をとろうと決意したのです。

── 尾花さんの行動に対して、王監督はどんな反応だったのですか。

尾花 王監督はそれを見て「何だい、これは?」と言って、辞職願を破ってゴミ箱に投げ捨てました。そして「私は君のやりやすいように考えているよ。来年もあらためて頼むぞ!」とおっしゃっていただきました。そんな言葉をいただけると思っていなかったので、王監督の懐の大きさに胸が熱くなりました。翌年もリーグ優勝を果たすことができ、ホッとしましたね。

── 2006年から巨人の原辰徳監督のもとでコーチを務めることになりました。

尾花 家庭の事情で関東に戻らなくてはならなくなり王監督に相談すると、直々に巨人に連絡を入れてくれました。王監督とは、じつは"小さな喧嘩"もたびたびありました。今となっては笑い話ですが、「私は常に勝つためにどうするか」を考えていました。それは王監督も同じで、お互い情熱があったからこそぶつかったんだと思います。でも最後は、いつも王監督がこちらの思いを受け止めてくれました。

【安田猛を目指すべき】

── ここまでコーチになられてからの話ばかりでしたが、現役時代の話も聞かせてください。尾花さんが入団した78年は、ヤクルトが球団創設29年目にして初優勝を果たした年です。

尾花 その年から始まったアリゾナ州ユマのキャンプに、一軍メンバーとして連れて行ってもらうために、合同自主トレから「尾花」の名前を覚えてもらおうと必死でした。当時ヤクルトのユニフォームは背番号の上に自分の名前が入っておらず、とにかく目立とうとみんなと違うタイミングで元気ある声を出していました。そして国立競技場の周りを走る4キロ走はいつもダントツのトップで走り、広岡達朗監督をはじめとする首脳陣にアピールしていました。ある時ブルペンで投球練習をしていると、森祇晶コーチが「元気な若造、オレが捕ってやるよ」と受けてくれたことがありました。その時は一番自信のあったシンカー気味のシュートを投げ込みました。

── 一軍メンバーには入れましたか?

尾花 努力の甲斐あって、ユマキャンプのメンバーに選ばれました。私はプロに入るまでは本格派の部類だと思っていました。しかしチームには、松岡弘さん、井原慎一朗さん、永川英植さん、酒井圭一といった速球派がいました。松岡さんは押しも押されもせぬエースでしたが、永川さんや酒井はプロ未勝利でした。そんな折、ブルペンに安田猛さんという左投手が現れました。球は速くないし、どう見ても力を入れて投げているように見えない。それでも3年連続15勝前後をマークしている。なぜだろうと観察していたら、コントロールが抜群だったんです。その時、「松岡弘を目指すのではなく、安田猛を目指すべきだ」と誓いました。

── それが「コントロールの尾花」のきっかけだったのですね。

尾花 今では考えられませんが、1カ月間のキャンプで4500球から5000球ぐらい投げ込みました。「あそこに投げる」と決めて、指先の感覚と脳が一致するくらい投げ込んでコントロールを磨かなければ、この世界では生きていけないという覚悟でした。また、ユマキャンプでは1年目にローリー・フィンガーズ(MLB通算341セーブ)にスライダーを教わり、2年目にはゲイロード・ペリー(MLB通算314勝)にフォークを教えてもらいました。

── 貴重なヤクルト球団創設初優勝も味わっています。

尾花 78年の10月4日の神宮球場でしたね。初優勝ということで、球場は異様な雰囲気でした。私のプロ初勝利は、そのあとです。日本シリーズの登板はありませんでしたが、ベンチに入れさせてもらい、日本一を経験。貴重な時間を味わうことができました。


尾花高夫(おばな・たかお)/1957年8月7日、和歌山県生まれ。PL学園から新日鉄堺を経て、77年のドラフトでヤクルトから4位指名を受け入団。83年に11勝をマークすると、84年は自己最多の14勝を挙げた。後年は半月板損傷などケガに悩まされ、91年に現役を引退。引退後は投手コーチ、監督としてさまざまな球団を渡り歩き、多くの一流投手を育てた。23年2月から鹿島学園高(茨城)のコーチとして指導を行なっている。