2023年4月、スポルティーバではどんな記事が読まれたのか。昨年、反響の大きかった人気記事を再配信します(2023年4月12日配信)。

石毛宏典が語る黄金時代の西武(6)
東尾修 前編

(連載5:辻発彦は西武に入団してすぐバットを短く持つようになった。黄金世代の「鉄壁セカンド」が育つまで>>)

 1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。

 前回の辻発彦に続く6人目は、長らく西武のエースとして活躍し、通算251勝を挙げた東尾修氏。1995年からは古巣・西武の監督を7シーズン務め、1997、98年とリーグを2連覇している。

 前編では、東尾氏がエースにのし上がっていくきっかけ、内角を攻める強気のピッチングスタイルが構築された理由などを石毛氏に聞いた。

東尾修はデッドボールにも「なんで謝る必要があるんだ」石毛宏典...の画像はこちら >>

【「黒い霧事件」がきっかけで一軍へ】

――石毛さんから見た、東尾さんの現役時代の印象を教えてください。

石毛宏典(以下:石毛) トンビさん(東尾の愛称)は投げることはもちろん、守備もバッティングもうまいんです。非常にセンスを感じましたし、まさに"野球の申し子"といった印象でした。野球だけではなくゴルフも上手ですし、学問や商売など、あらゆる分野でうまくやれそうなセンスを持っている方だと思います。

――東尾さんが西鉄ライオンズ(現在の西武)に入団した頃は、二軍でも打ち込まれるなどプロのレベルについていけず、野手転向を首脳陣に申し出たそうですね。

石毛 そうですね。ただ、プロの壁にぶつかっていた頃に「黒い霧事件」(プロ野球関係者が八百長に関与したとされる事件)が発生し、当時の西鉄のエースだった池永正明さんらが球界から追放されました。

一軍に主力ピッチャーが全然いなくなってしまって、トンビさんが突然投げることになったんですが、初めのうちは多くの登板機会を与えられても、若くて経験が浅かったこともあって勝てませんでした。

 その後、どうやって勝てるピッチャーになれたのか。もともと、箕島高校時代から勝つための投球術が備わっていたのかはわかりませんが、「俺の勲章は負け数が多いことだ」とよく言っていたので、おそらくたくさん投げたことで、勝つために必要な投球術を身につけたんだと思います。

――その投球術とは?

石毛 球は速くないし、体もそんなに大きくないトンビさんは、どうやってこの世界で勝っていくかを考え抜いたと思うんです。それでスライダーとシュートを覚えて、「俺にはこれしかない。これが必要なんだ」と腹をくくって、インコースとアウトコースの出し入れも身につけていったんじゃないかと。


 そういうことに気がついて取り組む選手はたくさんいるでしょうけど、結局はできなかった人も多いのがプロ野球の世界。それでもトンビさんができたのは、やはりセンスというか素地があったからでしょうね。
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【強気のインコース攻めをするようになった理由】

――東尾さんは性格が明るく社交的で、顔が広いイメージがあります。

石毛 トンビさんの奥さんが、かつて福岡でクラブを経営されていて。しかも一流のクラブだったので福岡の財界の方々が集まるようになって、トンビさんを応援する方たちが増えていったんです。そこで、「一流の方々とのつき合いは大事なんだな」と肌で感じたと思うんです。



 その後、(1979年に西武グループに球団が買収されたことを機に)本拠地が福岡から埼玉の所沢に移りますが、トンビさんは銀座など"一流どころ"が集まる場所で会食したりして人脈を築いていました。処世術に長けていたんでしょう。

――チームにおいて、東尾さんの存在感はやはり特別でしたか?

石毛 そうですね。年上には山下律夫さん、古沢憲司さんらベテランのピッチャーもいましたが、やっぱり先発ローテーションを守るのはトンビさんだし、エースとして大車輪の活躍をされていましたから。

――石毛さんは1981年、新人王を獲得するなどプロ入り1年目から活躍しましたが、ピッチャー陣の中心だった東尾さんとはどんなやりとりがありましたか?

石毛 トンビさんからもそうですが、野手の中心選手だった田淵幸一さんや大田卓司さんたちも、「これからは、おまえがチームを引っ張っていけ」と発破をかけてくれました。先輩方がやりやすい雰囲気を作ってくれましたね。


――石毛さんは、マウンドに上がる東尾さんのうしろで長く守っていましたが、石毛さんは東尾さんのピッチングをどう見ていましたか? やはり、打者に向かっていく強気な姿勢を感じましたか?

石毛 ほとんどがアウトコースの真っ直ぐとスライダーの出し入れで、時折シュート、という感じの組み立てでした。晩年は(右バッターの)インコースから入ってくるスライダーを覚えて、ピッチングの幅を広げた。

 デッドボール(通算165個はNPB歴代最多)が象徴するような、常に攻めていく姿勢も印象的でしたね。本人はぶつけるつもりは毛頭ないんでしょうが、「俺の球速じゃインコースに投げないと抑えられない」という思いが強かったんでしょう。当ててしまうと走者を背負ってピンチになるのですが、そういったリスクを背負ってでも攻める、という気持ちを感じました。

――1986年6月13日の近鉄戦で、リチャード・デービス選手にデッドボールを与えて発生した乱闘事件が思い出されます。

東尾さんは顔面打撲や右足首捻挫などの負傷を抱えながら続投し、完投勝利を挙げました。

石毛 デッドボールに関しては、「なんで謝る必要があるんだ」と言っていましたね。「当てられた側は一塁に行けるルールもある」と。当てられたバッターが向かってくると、ピッチャーはみんな逃げるじゃないですか。でも、トンビさんは「ここは俺の職場だ」とマウンドから動かなかった。外国人選手がすごい迫力で向かってきても、決して逃げることはありませんでした。

――そこも、向かっていく強い気持ちの表れですね。

石毛 "ガキ大将気質"なんじゃないですかね。先ほども話しましたけど、何をやってもうまく、喧嘩も強い。野球なら「俺がピッチャーで投げるわ」みたいな感じ。でも、そういった部分があってこそのトンビさんなんですよね。

(後編:東尾修との特別な信頼関係 ピンチでマウンドに行くと「お前がしっかり打たんからじゃ」>>)

【プロフィール】
石毛宏典(いしげ・ひろみち)

1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。