語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第1回】平尾誠二
(伏見工業高→同志社大→神戸製鋼)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 日本ラグビーを支えてきた名プレーヤーを振り返る、記念すべき第1回は「平尾誠二」。神戸製鋼の赤ジャージ姿は、あまりにもフォトジェニックだった。

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ミスターラグビー平尾誠二は「僕らの太陽」だった 学生時代の悔...の画像はこちら >>
 2025年1月17日、阪神・淡路大震災から30年が経った。

 2日後の1月19日に行なわれたリーグワン第5節。コベルコ神戸スティーラーズの選手たちは「1.17」の数字がプリントされた、その日限りの特別なジャージで戦った。

 30年前の未曾有の大災害から立ち直るべく、神戸復興の象徴のひとつになったのが、地元チーム「神戸製鋼ラグビー部(現・コベルコ神戸スティーラーズ)」だった。

 神戸製鋼は大震災の2日前、新日鐵釜石(釜石シーウェイブズ)と並ぶ「日本選手権7連覇」を達成する。神戸製鋼ラグビーは、当時最強を誇った。そのチームの象徴でもあった男の存在は、ラグビーファンでなくても知られていた。

 スラリとした長身と口ひげがトレードマーク。日本代表でも活躍した国内屈指の司令塔。

のちに神戸製鋼と日本代表の指揮官も務めた「ミスターラグビー」平尾誠二だ。

 1970年代後半から1990年代にかけて、高校、大学、社会人でリーダーとしてチームを牽引し、各カテゴリーで日本一を達成した数は計11回。平尾は常に日本ラグビーの中心で輝きを放っていた。

「僕の太陽だった」

 教え子でもある元日本代表WTB(ウイング)の大畑大介は、憧れの存在である平尾をこのように表現している。

 リーダーとはどういうものか──。平尾はこう語っていた。

「高校時代、キャプテンは『中間管理職』だと思っていた。だけど、大学以降は『創造型』でないとダメだった。意志・思考・戦略を持って、自分たちでチームを強くしていく『プロデューサー』のような発想が必要だった。まぁ、社会人以降は『社長』みたいなもんですよ(笑)」

 平尾は「創造的破壊」という言葉をよく口にしていた。常に世界を意識し、新しいカルチャーを作っていこうという「進取の精神」が根底にあった。

 平尾は1963年(昭和38年)に京都で生まれ、京都市立陶化中(現・凌風中)入学と同時にラグビーを始めた。

 その名をまず、世に轟かせたのは高校時代。伏見工業(現・京都工学院)のキャプテンとして山口良治監督のもと、全国高校ラグビー大会「花園」で初優勝を遂げた。この優勝はテレビドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルとなったことでも知られている。

【10年後に成し遂げた快挙】

 同志社大に入学すると名将・岡仁詩の薫陶を受ける。紺グレーのジャージを身にまとい、主にCTB(センター)として出場して大学選手権3連覇を達成した。

 特に1984年度、当時史上初の3連覇が達成された大学選手権決勝は、オールドファンにとって忘れることはできない。慶應義塾大の起死回生のプレーがスローフォワードと判定されて、「幻のトライ」となった一戦である。

 そして慶應義塾大戦の9日後、同志社大は日本選手権で新日鐵釜石と対戦する。日本選手権7連覇のかかった新日鐵釜石に、当時学生最強と謳われた同志社大がどこまで戦えるのか、全国のラグビーファンが固唾をのんで見守った。

 結果は17-31。新日鐵釜石のV7を目の前で見ることになり、平尾はこの悔しさを胸に1986年、神戸製鋼に入社する。

 平尾が神戸製鋼のキャプテンに就任したのは入社3年目。その年の全国社会人リーグで、東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)を破って初優勝を果たすと、日本選手権でも大東文化大学を下して初優勝に輝いた。

そして新日鐵釜石に敗れた10年後、平尾は神戸製鋼でV7を達成した。

 日本代表に初めて召集されたのは1982年。当時最年少(19歳4カ月)で選ばれた。桜のジャージーに袖を通し続けて計35キャップを獲得し、選手としてワールドカップに3度出場している。

 1989年5月28日、秩父宮ラグビー場でスコットランド代表を28-24で下した試合では、名将・宿澤広朗監督のチームをまとめるキャプテンとして出場。当時明治大のホープだったWTB吉田義人のトライを見事なパスで演出した。

 1991年10月14日、2回目の出場となったワールドカップのジンバブエ戦では、52-8の大勝を飾って日本代表のワールドカップ初勝利に貢献。平尾は「日本ラグビーにとって自信になった」と語り、歴史の1ページに大きな足跡を残した。

 その一方で、暗い影を落とす試合も目の当たりにしている。

 1995年6月4日、平尾にとって3度目のワールドカップのニュージーランド戦で17-145の大敗。ワールドカップ史上最多失点という屈辱を、平尾はピッチの外で味わうことになった。

【1995年の屈辱を、きっと...】

 現役引退後、平尾は神戸製鋼のヘッドコーチを経て、1997年に日本代表の監督に就任する。ただ、スパイクを脱いで指揮官になっても、平尾は創造性を発揮し続けた。

 そのひとつが「平尾プロジェクト」の発足。現役終盤~強化委員長時代から動き出し、他競技の優秀な選手にも目を配り、新たな若手発掘を目的としたアイデアだ。

 結果的に、プロジェクトが大成功を収めたとは言いがたい。しかし、競技人口が毎年減っている状況を苦慮し、日本ラグビーのために取った行動だったことは明白だ。

 また、オールブラックス経験のあるSH(スクラムハーフ)グレアム・バショップやLO(ロック)/N0.8(ナンバーエイト)ジェイミー・ジョセフの日本代表入りを後押ししたのも、監督時代の平尾の功績だろう。1995年に世界のラグビーがプロ化に舵を切ったことを踏まえて、ルールに則って日本代表を強化しようと邁進した。

 CTBアンドリュー・マコーミックを日本代表初の外国人キャプテンとして指名し、1998年にはアルゼンチン代表に勝利、さらに1999年にはサモア代表を下して「パシフィック・リム選手権」で優勝した。

 1995年の屈辱を、きっと晴らしてくれるはず......。ファンの大きな期待を胸に、平尾ジャパンは1999年ワールドカップを迎えた。しかし、結果は3連敗で予選プール敗退となり、平尾監督は2000年11月に退任した。

 その後も平尾は、神戸製鋼のGM兼総監督として7年ぶりに現場復帰し、クラブの強化に尽力。2003年のトップリーグ初年度には神戸製鋼の復活Vにも寄与する。

そんな活躍を見て、平尾が再び日本代表のヘッドコーチに来るのでは......と、心のどこかで期待していた。

 2009年に日本での2019年ラグビーワールドカップの開催が決まると、平尾は「過去にない、すばらしい大会にしなければいけない使命がある」と意気込み、組織委員会の理事・事務総長特別補佐に就任した。

【ラグビーを愛し、愛された人】

 ただ、日本が南アフリカを下した2015年ワールドカップを前後して、表舞台から姿を消した。かなり痩せてしまった......という噂話はよく耳にしていた。そんな矢先のことだった。

 2016年10月20日、胆管がんで天に召された。享年53歳。

 平尾がかつて日本代表に招集したジェイミー・ジョセフが、その指揮官に就任したばかりだった。そのジョセフHCは日本代表を率いて、2019年ワールドカップで史上初のベスト8に進出。常に世界を視野に入れていた平尾が、その躍進を目にすることができなかったことは、本当に残念でならない。

 11度の日本一を経験し、ワールドカップに選手・監督として4度出場した「ミスターラグビー」。平尾誠二ほどラグビーを愛し、愛された人は、今後も日本ラグビー界に現れないだろう。

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