セーブ制度導入50年~プロ野球ブルペン史
日米通算257セーブの平野佳寿の流儀(前編)

「これ、ずっと言ってきたんですけど、今まで自分から『抑えをしたい』って言ったこと1回もないんです。言われたら当然しますけど、今でも別にこだわってないです」

 日米通算257セーブを達成した投手から、意外な言葉が発せられた。

今季、プロ20年目を迎えるオリックス・平野佳寿はきっぱりと言った。

 たしかに、エース、4番と同様に抑えも、まず自ら希望してなるものではないだろう。ただ、9回を任されて2年、3年と結果を出したあと、抑えの座にこだわりを持つ投手は少なくない。その点で平野は独特と言えるかもしれない。

 京都・鳥羽高時代はセンバツに2度出場も背番号1は付けられなかったが、関西六大学野球の京都産業大では2年時からエース。リーグ新記録の通算36勝、404奪三振を記録し、「大学No.1右腕」と評されると、2005年の大学・社会人ドラフト希望枠でオリックスに入団。プロ1年目から先発で結果を出した平野に、リリーフ転向までの経緯から聞く。

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【プロにしがみつくための決断】

「大学で先発だったので、たぶんオリックスにも先発で獲ってもらっていたし、そのままずっとやりたいとは思っていました。でも3年目に手術をして、1年間、何もできなくて、次の年、あんまりよくなくて。それでも、よくなかったけど4年間、先発できていましたから、5年目も続けるつもりでいたんですね。その時、岡田(彰布)監督に代わって......」

 平野は1年目の2006年に7勝を挙げ、10完投で4完封。翌07年も8勝をマークし、投球回数は2年連続でチーム最多だった。飛躍が期待された3年目だったが、開幕前に右ヒジを痛めて遊離軟骨除去手術を受け、一軍登板ならず。

翌09年には復帰して開幕ローテーション入りも、3勝12敗と不振。チームは前年2位から最下位に転落し、大石大二郎から岡田への監督交代が平野の転機となる。

「キャンプ中にピッチングコーチから言われたんです。『中継ぎもできるようにしといてくれって。監督がそう言ってるから』って。それでオープン戦に両方、投げさせてもらって。あとはもう監督が適性を見て、『中継ぎにしようか』となったと思います。最初はロングリリーフでスタートして、途中から勝ちゲームに投げさせてもらえるようになりましたね」

 2010年の平野はいきなりチーム最多の63試合に登板。7勝32ホールド、2セーブ、防御率1.67と好結果を出したのだが、プロ1年目にして先発陣で軸になり得る成績を残していた。未練なく転向できたのだろうか。

「最初の1、2年は投げましたけど、3年目は全然投げられなくて、4年目も苦しかったんで、『中継ぎ』って言われた時に、素直に受け止められたんですね。ただ、それでも『先発したいな』と思いながらでしたけども、『先発したいです』って言えるような実績があったわけでもないですから。

 もう正直、先発でどうこうっていうよりも、なんとか一軍でしっかり投げないと、プロ野球にしがみつかないとダメだなっていうふうに思っていた時期だったので。与えられたところでしっかりアピールするだけだなと思っていて、すんなり受け入れられました」

【100%信じる球で勝負する覚悟】

 岡田は阪神監督時代、"JFK"と呼ばれた強力リリーフ陣を確立。2005年のリーグ優勝につなげていた。その監督から中継ぎで起用されたことに、何か特別な意識はあったのか。

「それはやっぱりありましたね。僕自身、JFKを見ていたので、ああいうふうな感じになれるんだったらうれしいなって。生みの親の岡田監督でしたから、オリックスに来たらまたつくるのかな......みたいな雰囲気もあったなかで監督の目に留まったと思うので。もしかしたら、ほかの監督に使われるよりも、岡田さんに使われるほうが意気込みは強かったかもしれないです」

 この年のオリックスは投打のバランスがよく、打線では若手のT−岡田が本塁打王に輝き、アレックス・カブレラ、後藤光尊と中軸を形成。投手陣は17勝で最多勝の金子千尋が柱となり、抑えは岸田護、ジョン・レスターが務めた。順位は5位ながら、今後に期待できるチームを岡田はつくっていた。そのなかで平野自身、中継ぎになって対バッターの攻め方はどう変わったのだろう。

「先発の時は、いかに見せないかとか、ある球種を見せずに抑えて、2打席目、3打席目で見せるとか、いろいろやっていましたけど、中継ぎになってからは自分のいいボールで勝負するだけでしたね。真っすぐでも変化球でも。

ちょっと変な余裕を見せると痛い目に遭うこともあるので、100パーセント自分の信じている球でしか勝負できないのかなと。今もそう思います」

 平野の「いいボール」と言えば、10年に最速156キロを計測した真っすぐにスライダー、フォーク。コントロールは大学時代から正確無比だったが、プロ入り後はストライクゾーンの四隅を狙うのではなく、ストライクゾーンで勝負することを覚えたという。

「大学の時は四隅を狙ってボール球でも、勝手にバッターが振ってくれたわけです。それがレベルの高いプロでは振ってくれない。『ボール』と判定されて苦しくなるのを、1年目に経験したんです。変化球でも、ストライクからボールになる球を投げても空振りを取れないときがあるから、ストライクからストライクのボールで空振りを取れるように持っていかないといけない。

 それでどんどんストライクで勝負するようにしたら、案外、テンポよくいけたんです。ただ、中継ぎになってからは、変化球よりもおもに真っすぐを投げていましたね。真っすぐが強い時期でしたから。岡田さんから『変化球はワンバンにせえ。振らさんでいい。

変化球があると思わせるだけでいいから。真っすぐをどんどん使っていけ』って言ってもらえたこともあって、自信を持って投げていましたね」

【驚異のストレート比率】

 当時、平野の投球割合は凄まじい。中継ぎに転向した2010年は真っすぐが全投球の70%。最優秀中継ぎ投手賞に輝いた11年は81%にまで達し、球界随一の割合。これはまさにJFKのひとりである藤川球児の全盛期をしのぐ数字だった。

「でも真っすぐを投げて打たれたら、岡田さんによう怒られましたけどね(笑)。『真っすぐで押しすぎや。変化球も使わなアカンやろう』って。『真っすぐ強いんやから、真っすぐでどんどんいけよ。そのへんの変化球で打たれるよりもええやろ』って、ずっとおっしゃってくれていたので......難しいなと思ったことはあります(笑)」

 それでも、首脳陣の信頼度は変わらない。2011年に抑えを務めた岸田に代わり、シーズン終盤に9回を任された12年。平野は70登板で7勝9セーブ、21ホールドをマーク。

79回2/3を投げて奪三振80、与四球5と、制球力が高いうえに、より多くの三振を奪える投手へとレベルが向上していた。

 そして、監督が岡田から森脇浩司に交代した2013年。先発に転向した岸田に代わる形で抑えとなった平野は、60登板で2勝31セーブ、防御率1.87。5敗を喫したものの、セーブ成功率はリーグトップの94%だった。

「監督やコーチから『抑えだ』とか『9回行け』とか、言われてないかもしれないです。そこで使われたという、それだけですね。で、その後、外国人が抑えになる年があって、僕は中継ぎになったんですけど、その時も『わかりました』って言って。しかも、その外国人がコケてしまって、また僕が抑えに戻るというのもありましたし、本当にこだわりはないんです」

(文中敬称略)

つづく


平野佳寿(ひらの・よしひさ)/1984年3月8日、京都府生まれ。鳥羽高校から京都産業大を経て、2005年にドラフト希望枠でオリックスに入団。1年目から開幕ローテーション入りを果たし7勝をマーク。5年目に中継ぎに転向すると、11年に最優秀中継ぎ投手、14年に最多セーブのタイトルを獲得するなど、球界を代表するクローザーに君臨。17年には日本代表として第4回WBCに出場。

同年オフ、海外FA権を行使しアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍。1年目は75試合に登板し、4勝3敗3セーブ、防御率2.44の成績をマーク。20年はシアトル・マリナーズ、21年から再びオリックスに戻りプレーし、チームのリーグ3連覇に貢献した

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