【SNSで騒然となった「玉砕」の表現】

 試合前から、73歳の"やくざ監督"はメディアへの警戒心をのぞかせていた。

「私が『玉砕』などと言うと、またマスコミから『軍国主義』と言われかねないから。語弊があれば、『当たって砕けろ』としてください。

1試合でみんな立てなくなるくらい、すべて力を出しきってほしいです」

 対戦相手は仙台育英(宮城)。開星(島根)の野々村直通監督は対戦が決まった際、「仙台育英は大横綱。ウチはふんどし担ぎ」と語り、こう続けている。

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「勝負にはならないけど、すべて力を出しきって、玉砕してくれたらいいと思います」

 この「玉砕」発言は大いに話題になり、SNS上を騒然とさせた。そうした背景があり、8月14日に仙台育英との2回戦を迎えたのだった。

 どうしても、聞きたかった。選手たちには、「当たって砕けろ」の精神をどのように伝えたのかと。野々村監督は試合前々日のミーティングでの出来事を明かした。

「『群羊(ぐんよう)駆って猛虎を攻む』ということわざを書いて、子どもたちに説明しました。弱くても、集団になって立ち向かえば、恐ろしい虎もなんとかなるんじゃないかと。その精神しかないぞ、と話しました」

 そして、野々村監督は茶目っ気たっぷりに続けた。

「イコール、玉砕ですよ」

【「猛虎」に食らいついた「群羊」】

 とはいえ、野々村監督には懸念点があった。中心選手の持田聖純(3年)が甲子園の初戦で左手に死球を受け、負傷していたからだ。

「ウチのチームでは、能力が一番高い子。右手は使えるからピッチングは問題ないけど、左手が使えないからバットを振れないと思う。僕はラスト(9番)くらいの打順でいいと思ったんだけど、スタッフは3番のままがいいと言うので、相手が警戒してフォアボールでも出してくれたらと思って」

 ところが、試合は思わぬ形で滑り出す。1回表の開星の攻撃、一死一塁で打席に入った3番の持田は、詰まりながらも右翼へ落とす安打を放ってみせたのだ。

 野々村監督は感服した様子で、こう語る。

「持田は野球センスがあるというのか、本当によくチャンスを作ってくれましたね。手が痛いから、あそこ(右翼方向)しか打てんだろうね」

 のちに持田に聞くと、左手は「バットを握るだけで痛い」状態だったという。

「痛み止めを飲んでいたので、1打席目はまだ大丈夫でした。2打席目以降は、痛み止めが切れてしまって......(以降は3打数0安打)」

 持田が一死一、三塁とチャンスを広げ、4番の松﨑琉惺(2年)が中堅に犠飛を放つ。開星が先取点を奪った。

 直後の守備で外野手の2失策が絡み、仙台育英に逆転を許した。それでも、この日は投手として先発した持田が粘りの投球を見せ、中盤までゲームメイクする。

 5回表の開星の攻撃では、9番打者の田中大喜(3年)が三塁線へ芸術的なセーフティーバントを決めて出塁。続く1番・小村拓矢は犠打を失敗しながらも、仙台育英のプロ注目左腕・吉川陽大に食らいつく。何度もファウルで粘り、球数を投げさせた。まさに「群羊駆って猛虎を攻む」攻撃だった。

 田中は背番号14の控え三塁手。久々の先発出場にもかかわらず、この日は2安打と気を吐いた。いかつい風貌の野々村監督であっても、「怒られても怖くありません」と言ってのける強心臓の持ち主だ。田中は言う。

「監督から『群羊駆って猛虎を攻む』の言葉を聞いて、チームがひとつになって戦うしかないと思っていました」

【いまだにたぎる勝負師の血】

 しかし、「猛虎」はなかなか揺らがなかった。

 小村が粘った末に放った強烈なゴロは、二遊間への安打性の当たりだった。ところが、仙台育英の二塁手・有本豪琉(1年)が難しいバウンドをバックハンドで好捕。そのまま二塁ベースカバーに入った遊撃手の砂涼人(1年)にグラブトス。砂が滑らかな動きで一塁に転送し、超高校級の併殺を完成させた。

 その後、仙台育英は3点を加え、試合を優位に進めている。

 それでも、開星も「群羊」のたくましさを見せる。7回裏には一死三塁のピンチで仙台育英のスクイズを見破り、捕手の松本七斗(2年)がウエストを要求して難を逃れるシーンもあった。

 のちに「野々村監督からウエストの指示を出したのか」と聞くと、野々村監督は「いや、全然」と答えた。

「配球は全部、部長(大谷弘一郎部長)に任せてるから。でも、キャッチャーの松本は2年生だけど、インサイドワークがよくてね。あそこも見事に外して、本当によかったですよね」

 松本に確認すると、こんな内幕を明かしてくれた。

「自分も『スクイズがくるだろうな』と思っていたら、ベンチの大谷先生から指示が出たので。思いきって外しました」

 8回に両軍1点ずつ取り合い、スコアは2対6に。9回表の最後の攻撃中、松本はこんなシーンを目撃している。

「監督さんがベンチでずっと叫んでいて......。監督さんはずっと気持ちが強くて、最後まで3年生を信じてくださっていました。

それを見ていたら、自分も『負けてられんな』と思って、ずっと声を出していました」

 二死二塁のチャンスを作ったものの、最後は力尽きた。2対6で試合終了。両チームの戦力差を考えれば、まさに「玉砕」と呼ぶにふさわしい戦いぶりだった。

 試合後、開星の選手は誰も甲子園の土を拾わなかった。これは2020年の監督復帰以前からの野々村監督の方針であり、糸原健斗(阪神)らOBたちも守ってきた伝統だ。開星の選手たちは過去の栄光にすがらず、「今を生きる」ことを美学とする。野々村監督はかつて、こんな持論を展開したこともあった。

「甲子園の土は甲子園球場の備品。勝手に持ち帰ったら、窃盗罪でしょう」

 試合後の会見では、野々村監督のインタビュースペースに報道陣が殺到した。どんな名言・珍言が飛び出すのか、期待してのことだろう。

 試合の感想を問われた野々村監督は、開口一番、こう答えている。

「弱いほうがミスしたらダメだね。

あれだけエラーしたらね。(1回裏の2失点を)せめて1点にとどめておけば」

「本当によくやった」「感謝しかない」と選手を称える発言も頻出したが、悔しさを滲ませるような言葉も目立った。73歳になっても、勝負師の血が騒ぐのだろう。

【73歳、引き際をどう考える?】

 最後にどうしても確認しておきたかった。野々村監督は、これからの「引き際」をどのように考えているのか。60歳になった2011年に一度は勇退し、「気持ちが切れた」とも明かしている。甲子園初戦の試合後には、73歳にしてユニホームを着続ける苦しみを吐露していた。

 野々村監督が今夏を"花道"と考えている可能性は十分に考えられた。失礼を承知で質問すると、野々村監督はしみじみと噛みしめるように答えた。

「引き際......。一度は引いたんだけどね。(14年前に)最高の幕引きをしてくれて。

僕は(2020年に監督に復帰して)いい野球部にしよう、応援してもらえる学生を育てよう、ということだけを考えていました。それで、実際にそうなったしね......」

 引退宣言でも飛び出しかねない流れだったが、ここからトーンが変わった。

「でも、地元の子(中学生)に声をかけるじゃないですか。親は『野々村先生が3年間見てくれ』と言うわけですよ。それで監督をやめたら、詐欺になるでしょ? 親と子どもに対する。もし倒れでもしたら、親もあきらめてくれると思うけど」

 ということは、最後はグラウンドで倒れるまで......。そう聞きかけたところで、野々村監督は「それはダメ!」と言葉を被せてきた。

「みんな忘れてるけど、僕はアーティストだから。野球は素人。グラウンドで死ぬなんてダメ。最後はキャンバスに筆を置きながら死にたい」

"やくざ監督"でもあり、"山陰のピカソ"の異名を誇るアーティストでもある。もともとは美術科教諭で、現在は松江市で「にがお絵&ギャラリーののむら」を開設している。昨秋には石見神楽を描いた油彩画が、全国公募展の極美展で最上位から5番目に相当する文部科学大臣賞を受賞した。

 高校野球監督としても、アーティストとしても、いまだ現役。名物監督は、まだしばらく高校野球界に話題を振りまいてくれそうだ。

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