木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第16回:水沼貴史評(6)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

日本サッカー「プロ第1号」選手の苦悩と後進に与えた光 「社会...の画像はこちら >>

第15回◆木村和司の「伝説のFK」 その瞬間に起こっていた知られざる「悔恨」>>

 水沼貴史は、日産自動車サッカー部が2年連続で三冠(日本リーグ、天皇杯、JSLカップ)を獲得した時代、チームのキャプテンを務めていた。

 木村和司という特別な選手の扱いについては気を遣いながらも、「それが大変っていうより、たぶんこの人を気持ちよくサッカーさせたら一番の強みになるなっていうふうに思っていた」。

 そこでは、「和司さんに気を遣わせたらダメなので、どうしたら普通にしてもらえるか」に腐心したという。

 さらに時間をさかのぼれば、水沼がキャプテンを務める以前、日産には木村がキャプテンだった時代もある。

 しかし、その負担が原因だったかどうかはともかく、水沼の記憶によると、「和司さんが超スランプに陥ったことがある」のも、その頃である。

「そういうときに気を遣わせないで、思う存分自分のサッカーができるようにしてあげなきゃいけないな、とは(自分がキャプテンになる前から)思っていましたね。

 特別ヨイショするとかっていうのはないけど、遠征に行くとしたら、バスの席は(水沼と木村が)一番後ろの列にいるとか、なるべく近くにいるような感じにはしていたかな」

 木村の不調の原因について、水沼も「なんでかっていうのは、わからない」。

 だが、「たぶんそういう心的なところ、キャプテンになったみたいなところが影響していたような気もしますけどね」というのが、率直な印象だった。

 また、それは木村が日本初のスペシャルライセンスプレーヤー、つまりはプロサッカー選手として認定された時期とも、おおむねタイミングを同じくする。

「(木村のスランプは)和司さんがプロになって、5、6年目ぐらいでしたよね。奥寺(康彦)さんが(ドイツから)帰ってきて、(奥寺と一緒に)自分もプロ第1号って言われて、やっぱり日本サッカーのことを考えたというか、『自分が成功しなきゃ、この道は開けない』くらいのことを、もしかしたら思っていたのかもしれないですよね」

 実際、木村と奥寺の2人が1986年、日本初のプロサッカー選手になると、翌1987年にはスペシャルライセンスプレーヤーに代わって、ライセンスプレーヤーという制度が新設され、水沼を含む、72人ものアマチュア選手がプロへと立場を変えることになる。

「それは和司さんの成功っていうか、それを会社が認めてくれたことで、全体的に雇用形態を変えて(サッカー部員を)嘱託社員にして、何人かは(プロ選手として)やれるよという形に、加茂(周/当時日産監督)さんが整備してくれた。

 自分が成功したら、他の人たちも(プロに)なれる環境ができる。そういう責任も、たぶん和司さんは背負っていたと思います」

 木村が日本初のプロサッカー選手として話題になっていた頃から、水沼はその様子を見ながら、あくまでも自分事として「僕らはどうなるんだろう?」と考えていた。

 はたして、水沼にも雇用形態変更の話が持ち上がったのは、入社5年目のこと。ついに、自分のサッカー選手としての処遇を選べるときが来た。

 すなわち、嘱託契約に変更してプロ選手になるか、そのまま終身雇用の社員選手でいるか、である。

 水沼は木村がプロになると聞いたとき、「すごいな」とは思いつつ、その一方で「大丈夫なのかな」とも感じていた。それが自分のこととなれば当然、「散々悩んだ」。

 だが、最終的に選んだのは、プロへの道。「その道を作ってくれたのは、和司さんでした」。

 選手のプロ化が進むと同時に、プレー環境も整備された。

 日産サッカー部では、神奈川県横浜市に新たな練習場が作られ、「ロッカーがセパレートで、ひとりずつになっていました。今は当たり前だけど、当時はそんなロッカーないですよ。

クラブハウスには大きなお風呂があったり、それだけでも魅力的でした」。

 それは先駆者が心労とともに新たな道を切り開き、後進がそれに続いた結果、もたらされたものでもある。

「ずっとサッカーをやってきてプロになって、社会的な地位を得たというか、サッカー自体が認められたっていうふうに思いましたからね。やってきたことが間違いでなかったって思えたし、それは大きな出来事でした」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。

日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。

編集部おすすめ