連載:NEXT STAGE~トップアスリートのセカンドキャリア
髙萩洋次郎インタビュー(後編)

「シンプルにできることを確実にやる。自分が無理にボールを持って突破するよりも、考えていたのは、ボールを受けた味方にどれだけ時間が与えられるかとか、どうやったら味方のよさを発揮できるかということ。

ポジション取りに関しても、自分がおとりになっても味方がフリーになればいい、そんな考えがベースにありました。常に味方の助けになるようなことは意識していたので、一緒にプレーした選手には『意外とやりやすい』と思ってもらえていたのでは、と思います」

 サンフレッチェ広島時代には1トップ下の2シャドーの一角、プレーメーカー色の強いアタッカーとして2012、2013年のJリーグ連覇に貢献。また、2017年から約5シーズンプレーしたFC東京ではボランチとして攻守のつなぎ役を担った髙萩洋次郎は、自身のプレースタイルをそんな言葉で表現した。

 パスを武器にしていたこともあってか、ときに"ファンタジスタ"と称されることもあったが、そのプレーはシンプルで、常に周囲に気を配る繊細さから生まれていたとも言える。

Jリーグ連覇、海外移籍、日本代表...一般企業に就職した髙萩...の画像はこちら >>
 そんなプレースタイルとなった背景には、ひとつの大きな経験があった。2010年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝だ。

 髙萩はその試合を前に、同大会で活躍の目立った若手に送られるニューヒーロー賞を受賞。ジュビロ磐田との決勝は、「自分がやってやる」と、ふだん以上に気負って臨んだ。だが、それが空回り。チームも延長戦の末、3-5と敗戦。いまでも現役時代を振り返ると、いちばんの"失敗"として心に深く刻まれているという。

【広島でリーグ連覇に貢献】

「へたなくせに、目立とうとしてしまい......あの試合のあとは、本気でサッカーをやめたいと思いました。

 そこで気づいたのは、自分のよさはできることを丁寧に確実にやることです。

それからは、いつも自分のリズムを大切にプレーすることを心掛けるようになりました。僕の場合、大事な試合だからといって急に意気込んでふだん以上の力を発揮できるタイプではないですからね。逆に、いつもどおりの気持ちで臨めれば、120%の力を発揮できることがあっても、半分しか発揮できないということはない。なので、いつも平常心で、できることを丁寧にやろうという考え方になっていったんです」

 福島県いわき市出身の髙萩は、15歳で地元を離れ、広島のユースに加入。2003年には16歳8カ月3日でトップチームにデビュー(当時のJリーグ最年少出場記録)し、プロとして22年を過ごした。

 初出場した湘南ベルマーレ戦の記憶は無我夢中でほとんどないが、主力としてリーグ連覇に貢献した2012、2013シーズンのことは、いまもはっきりと記憶に残っているという。

 なかでも2012年はチームトップの12アシスト(4得点)を記録し、優勝を決めた33節のセレッソ大阪戦(4-1)では、ペナルティエリアの外から左足を強振し、見事な先制弾を挙げるなど、キャリア最高のシーズンとなった。

「やっぱり広島で連覇したことはいちばんの思い出ですし、なかでも2012年の初優勝は特別でした。僕自身、それまで大事な試合でゴールを挙げたことがなかったですし、セレッソ戦のゴールは優勝に直結したのでよく覚えています。こぼれ球でしたが、ふだんはあの位置から左足でシュートを打つことなんてなかったですし、初優勝時の映像としてその後もテレビなどでよく目にしたので、余計に覚えているというか(笑)。

 あの時はメンバーもよかったですし、何をやってもうまくいったという感覚でした。優勝が決まった時は、うれしくて初めて泣きましたね」

 広島で充実した時を過ごしているように思えたが、2015年1月にはオーストラリアのウェスタン・シドニー・ワンダラーズに新天地を求めると、同年夏には韓国のFCソウルに加入し、2シーズンを過ごした。

【英語圏のリーグを希望した理由】

 髙萩は2013年の東アジアカップで国際Aマッチ初出場を果たしていたものの、当時は"代表候補"にとどまっていた。主力としてJリーグ連覇に貢献した選手であれば、ステップアップとして欧州トップリーグを目指すのが一般的にも思えるが、目指したのはJリーグと比較しても決してレベルが高いとは言えないオーストラリアと韓国だった。ただ、そこには髙萩なりの考えがあった。

「2012年と2013年は連覇したものの、2014年の広島は8位に終わり、オファーこそいただいたものの、契約交渉は納得するようには進みませんでした。そこで、前々から考えていた海外移籍を視野に入れたという感じでした。

 ただ、欧州5大リーグなどに行く自信はなかったですし、僕の希望は英語圏のリーグ。広島時代も、ミキッチなど   外国人選手ともっとコミュニケーションが取れたら楽しいし視野が広がるだろうなと思っていましたし、英語が話せるようになったらいいじゃないですか。『ならイングランドでは?』と言われそうですが、それは難しく、オーストラリアかアメリカという選択になりました」

 結果的にオーストラリアでのプレーは半年に終わったが、その後の韓国でも英語を使う機会があり、無駄ではなかった。2017年に日本に復帰してからは、それまで以上に外国人選手と会話ができるようになり、充実した選手生活につながったと振り返る。

「FC東京時代は、ピーター・ウタカやネイサン・バーンズ、ジョアン・オマリらとよく食事に行っていましたし、それまで以上に外国人選手とコミュニケーションを取るようになりました。そこは、人としても成長できたかなと思っています」

 2013年に日本代表の2試合に出場した髙萩は、2017年に約3年半ぶりに代表復帰すると、ワールドカップアジア最終予選、東アジアE-1選手権でメンバー入りを果たした。しかし、結果的には出場は3試合のみと代表には定着できなかった。

髙萩と同じ1986年生まれと言えば、長く代表で活躍した本田圭佑長友佑都岡崎慎司らがいるが、彼らとの距離感や日本代表にはどんな思いがあったのか。

「代表は難しいなって、最初に呼ばれた時から思っていました。自分のよさは、あくまで周りの選手とのコンビネーションや関係性があって生きるもの。何か突出した武器があったわけでもないですし、代表のように短期間での活動のなかでは自分を表現するのも簡単ではなかったというか......。

 それに、僕は人見知りですからね。10代の頃から知っている選手もいましたが、やっぱり長く会っていないと関係もリセットされるじゃないですか(笑)。圭佑や佑都、岡ちゃんらと一緒にサッカーしてみても、ふだんからヨーロッパの第一線で活躍している彼らは、対人の強さなどにしてもレベルが一段階違うように感じていました」

 ヴァイッド・ハリルホジッチ監督が指揮を執っていたロシアワールドカップ出場を決めたオーストラリア戦では、ベンチからは外れたものの、招集メンバーには入っていた。もう少しでワールドカップ出場に手が届く位置にはいたように思うが......。

「いや、その逆ですね。オーストラリア戦はスタンドから見ていましたが、目の前で見てしまった分、肌感覚として余計に難しいと感じていました。チームメート、監督との信頼関係、長くやっていたメンバーも多かったですし、そこに割って入るのは厳しいと......。選手としては、そこで勘違いしてでも気持ちを上げていくほうが絶対にうまくいくとは思います。

でも、自分はどこかで客観視してしまっていたんです」

 ピッチの上でも、ピッチを離れてからも、一歩引いた冷静な視点を持っている。それが髙萩らしさなのかもしれない。

髙萩洋次郎
1986年、福島県生まれ。2002年、サンフレッチェ広島ユース入団。2003年、トップチームに登録され、湘南ベルマーレ戦でデビューしJリーグ最年少記録を更新。2012年の初優勝などに貢献した。2015年、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズに移籍。その後、FCソウル、FC東京、栃木SC、アルビレックス新潟シンガポールでプレーし、2024年、現役を引退。日本代表初選出は2013年。2025年、VOLZ入社。

編集部おすすめ