錦織圭という奇跡【第38回】
内山靖崇の視点(2)

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◆内山靖崇の視点(1)>>「フォアハンドのスイングスピードが速すぎて......」

 2008年の全米オープン3回戦──。錦織圭が世界4位のダビド・フェレール(スペイン)を破ったという衝撃の報を、内山靖崇は病院のベッドの上で知った。

 当時の内山は、まだ16歳になったばかり。錦織と同じように小学生時代は全国大会3冠を達成し、盛田正明テニス・ファンドの支援を受け、13歳で米国のIMGアカデミーに渡った。

 18歳の錦織が旋風を巻き起こした2008年当時も、内山はIMGを拠点とし、ジュニアの国際大会で活躍。ただ、どこかで無理を重ねていたのだろう。夏休みに里帰りした際に、足を疲労骨折した。

錦織圭とダブルスを組んで「やっぱ、すごいなこの人」 明るい表...の画像はこちら >>
「今でもボルトが入っています」と苦笑いするほどの手術を受け、病室で過ごす久々の日本の夏。そんな時に飛び込んできた、錦織の「世界4位撃破」のニュース。

「いや、ちょっとすごすぎるなって。わかってはいましたが、『どこまでいっちゃうんだろ、この人』って思いながら見ていました」

 テレビのモニター越しに見る錦織の輝く姿は、彼の目にはとてつもなく遠い世界の出来事のように映った。

 シングルスで世界78位、ダブルスは102位を記録し、ATPツアーのダブルス優勝タイトルも持つ内山は、日本きってのオールラウンダーである。国別対抗戦デビスカップでは、単複どちらもできるユーティリティ選手として活躍。また、現役選手にして自ら国際大会を創設・運営するなど、今や日本テニス界のリーダー的存在だ。

 ジュニア時代にも、2009年の全豪オープン・ジュニア部門でダブルス準優勝。大阪市長杯世界スーパージュニアでは、単複優勝を成し遂げている。ちなみにスーパージュニア優勝の過程では、のちの世界13位ニック・キリオス(オーストラリア)や、14位のカイル・エドムンド(イギリス)らにも勝利。シングルス決勝の相手にしてダブルスパートナーは、のちのダブルス世界1位のマテ・パビッチ(クロアチア)である。

 それらの突出した実績にもかかわらず、10代の頃の内山は「テニスを辞めよう」と思い詰めるほどの挫折感を味わってきたという。

【2014年2月の有明コロシアム】

 小学生時代に参加した『修造チャレンジ』では、練習についていけずに途中で帰らされたことがあった。IMGアカデミー留学でも、盛田ファンドが定める規定にわずかに届かず、最後の1年は在籍できなかった。

 そのたびに、「自分にテニスは向いていない。プロは無理だ」と深く落ち込む。彼がそこまで自分に厳しかった理由の一端は、錦織圭というあまりに偉大な存在を、どうしても比較対象にしていたからかもしれない。

「僕自身は、圭くんを意識してはいなかった。そんなの、おこがましいです」と、内山は優しく笑う。

「ただ、周囲から比較されていたのは感じていました。

もちろん、そうやって注目されてよかった面もあったと思います。いろんな方から期待してもらえるうれしさがありながら、同時に『いやちょっと待って、そこまではいけないぞ』と感じていたり......。

 自分を過小評価しちゃっていたんですかね。そういうふうに思ってしまったのは、それまでに経験した挫折が大きかったと思います」

 盛田ファンドを打ち切られ、郷里の北海道に戻るも練習拠点すら定まらず、途方に暮れた17歳の夏。それでも手を差し伸べてくれる関係者や、今も師事する増田健太郎氏らとの出会いがあり、東京に拠点を得て、18歳でプロ転向した。

 今や15年に及ぶプロキャリアには、いくつかのターニングポイントがあったと内山は言う。その最初のひとつは、2014年2月。デビスカップの日本対カナダ戦で、錦織とダブルスを組み勝利を得たことだった。

 当時21歳の内山は、前年に日本代表に初選出された。ただその時、急造ペアのダブルスで敗戦を喫したため、デビスカップは苦い記憶になってしまっていた。

 3度目の代表招集となったカナダ戦は、有明コロシアムで開催。シングルスを錦織と添田豪氏が務め、内山と杉田祐一氏がダブルス要員だった。

 ところが試合の数日前、杉田氏が腹筋を痛める。情報は外に漏れないよう伏せられたが、とても試合ができる状態ではない。錦織か添田氏のいずれかが、単複両方に出ざるを得ない状況に陥っていた。

【錦織の言うことが全部当たる】

 当時のデビスカップは3日間かけて行なわれ、初日にシングルス2試合、翌日にダブルス1試合。最終日に対戦カードを入れ替えてシングルスを2試合し、先に3勝したチームが勝利。消化試合を除き、単複すべて5セットマッチのフォーマットだった。

「そのカナダ戦の初日、圭くんが先に試合をやって、ストレートで勝利。その試合後にクールダウンしながら、圭くんが『明日、ダブルスやる?』みたいに言ってきたんです。たぶん、体力的にも余裕があったんでしょうね。添田くんが敗れたこともあり、その時点で圭くんが『じゃあ、やるか』ってなったんです」

 カナダチームのダブルスのエースは、長く世界1位に座したダニエル・ネスター。戦前からダブルスはカナダ優位と目されていたなか、錦織の出場志願は「勝利をもぎとりにいく」決意表明でもあっただろう。

 内山にしても、直近のATPチャレンジャーで初のダブルスタイトルを手にし、自信を高めてデビスカップに臨んでいた。ただ、1年前のデビュー戦で急造ペアが機能せず、敗れた「しんどい思い出」もぬぐいきれない。

 そんな内山の迷いを払ってくれたのは、錦織の明るい言葉と表情だった。

「練習の時から、普通にボレーを打っている時に『え、うまっ!』とかめっちゃ言ってくれて。ダブルスを組むことになった時も、当日の試合前に『なんかあったら、俺が何とかするから。うっちーは思いっきりプレーしてくれたらいいから』って声をかけてくれたんです。

 それでもう、気持ちがすっごくラクになったんです。僕はデュースサイド(コートの右側)だったので、仮に僕が1ポイントも取れなかったとしても、圭くんが全部取ってくれたらゲームを落とすことはない。逆に、僕が1ポイントでも取ればゲームを取れるんだ......という考え方ができたんです。

 実際にプレーしているなかでも、やっぱり、めちゃめちゃすごいんですよ。特にすごいなと思ったのが、言うことが全部、当たるんです。

【日本テニス界にとっても歴史的な日】

『次は相手、こう来るよ』とか『次、ここに打ったら相手はたぶん、ここに打ち返してくるから、ポーチ(ボレー)に出て』とか。僕は言われるとおりに動いていたら、本当に目の前にボールが来るので、ポンと簡単にボレーを決めたりとかして。試合中も『やっぱ、すごいなこの人』って何度も思いました。

 そうかと思ったら、ブレークされたあとにベンチで『あのさ、さっき、もしかして40-0からブレークされた?』とか言い出して。そうですよって答えたら『マジっ!?』って(笑)。

 本気で気づいていなかったのか、あるいは『そんなに真剣にとらえなくていいよ』という意図で言ってくれたのか......。それは本人しかわかりませんが、おかげで僕も、すごくリラックスしてやることができたんです。

 だからあの試合は、当然ながら圭くんに勝たせてもらった試合だったし、自分も前の週から続いていいパフォーマンスができた。いろんな要素が重なって、あのネスター/フランク・ダンセビッチ組に勝てたんです。

 あれ以降、デ杯(デビスカップ)にもずっと呼んでもらえるようになったし、自分のなかでも特にダブルスへの自信がついた。本当に、ものすごく大きな勝利だったんです」

 錦織/内山組が殊勲の白星を手にした翌日、錦織がダンセビッチの途中棄権により勝利したことで、日本の勝利が確定した。

 内山のキャリアを大きく前進させた勝利──。それは、デビスカップ初のベスト8進出という、日本テニス界にとっても歴史的な日となった。

(つづく)

◆内山靖崇の視点(3)>>「もらったメッセージは、悩んだ時に元気が出るおまじない」


【profile】
内山靖崇(うちやま・やすたか)
1992年8月5日生まれ、北海道札幌市出身。ジュニア時代から頭角を現し、2011年にプロ転向。

単複双方で世界を転戦し、デビスカップ(国別対抗戦)では主にダブルスで日本チームの勝利に貢献してきた。2019年のブリスベン国際やジャパンオープンではシングルスでベスト8入りを果たし、同年11月に自己最高ATPランキング78位を記録。2021年に故郷・札幌で「UCHIYAMA CUP」を立ち上げるなど、テニス界の発展にも尽力している。現在も現役選手としてツアーを転戦中。ATPチャレンジャー・シングルス通算7勝。身長183cm。

内田 暁●取材・文 text by Akatsuki Uchida

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