7月2日の夜。セントルイス・カージナルスがアトランタで逆転勝ちを収めた直後のことだった。
翌日はシカゴでデーゲームが控えており、選手たちは急いで着替えや荷物の整理を済ませ、移動の準備を進めていた。そんな慌ただしいクラブハウスで、ひとりだけ上半身裸のままロッカーの前で丁寧にグラブの手入れをしている選手がいた。
ラーズ・ヌートバーだ。
2023年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で侍ジャパンの世界一に貢献した28歳。じつは、これまで道具の手入れにそれほど熱心なタイプではなかった。それだけに、今では試合後に必ずグラブを磨く姿がすっかり日常の光景になったことに驚かされる。
【きっかけは殿堂入りのスピーチ】
そのきっかけを尋ねると、さらに驚く答えが返ってきた。
「イチローさんがアメリカ野球殿堂入りを果たした時のスピーチです。4、5回は繰り返して見ました。本当に心に響く言葉ばかりでしたが、一番印象に残ったのは、『自分に責任を持つこと』について語っていた部分です。試合後に『なぜ、あの打球を捕れなかったんだろう』と振り返る時、グラブのせいにするのではなく、自分に何ができたのかを考えるべきだと。その言葉が強く心に残りました」
カージナルスはシアトル・マリナーズとはリーグが異なるため、シアトル遠征は2年に一度しかないが、幸運なことに、イチロー氏の殿堂入りセレモニーから約6週間後にその遠征が行なわれた。
試合前、ヌートバーはマリナーズ会長付特別補佐兼インストラクターを務めるイチロー氏のもとを訪ね、あいさつを交わした。
「グラブも見せてもらいました。新品かと思ったら、もう4年も使っていると聞いて本当に驚きました。しかも、現役を引退して7年も経つのに、今でも毎日オイルを塗って手入れを続けているというんです。本当にすごいと思いました。細かいことを大切にし続ける姿勢こそが、殿堂入りするほどの偉大なキャリアを支えたんだと実感しました」
それまでヌートバーは、日々のルーティンにグラブの手入れを組み込んではいなかった。決して怠けていたわけではない。若い選手にとっては、メジャーの厳しい競争を勝ち抜くために、練習やトレーニングに多くの時間を費やしており、道具のケアまで十分に手が回らないことも珍しくない。
【イチローと名捕手の共通点】
だが、イチロー氏のスピーチを何度も見て、さらに本人から直接話を聞いたことで、ヌートバーの脳裏にある記憶がよみがえった。
「ヤディも同じことをやっていました」
「ヤディ」とは、カージナルス一筋で19年間プレーし、「史上最高の捕手」のひとりとも称されるヤディアー・モリーナである。2022年限りで現役を引退したが、ヌートバーはその最後の2年間をともにプレーした。
「ヤディといえば守備ですよね。でも、僕のなかで一番印象に残っているのは、守備で見せたスーパープレーではありません。
そして、イチローさんからその意味を丁寧に教えてもらった時、頭の中で電球が灯ったような感覚になりました。『イチローさんもヤディも、偉大な選手には共通点があるんだ』と気づいたんです」
そして、もうひとつの共通点が、守備の名手に贈られるゴールドグラブ賞である。
イチローは10度、モリーナは9度、ゴールドグラブ賞を受賞している。その卓越した守備を支えていたのが、日々欠かさなかったグラブの手入れだった。
それまで年間に数えるほどしかグラブの手入れをしてこなかったヌートバーは、「これからは毎日やる」と心に決めた。
アトランタで目にしたあの光景は、その決意が口先だけではなかったことを物語っていた。シーズンが折り返しを迎えた今も、その習慣は一日も欠かさず続いているという。
【日々の積み重ねが生んだファインプレー】
そして、その効果を早くも実感している。
6月15日のサンディエゴ・パドレス戦。カージナルス先発のダスティン・メイは、7回の先頭打者を迎えるまで、ひとりの走者も出さない完璧な投球を続けていた。そのパーフェクト投球を支えたのが、5回にヌートバーが見せたファインプレーだった。
レフト前に落ちそうなライナーへ猛然と突っ込み、スライディングキャッチ。
「100%、グラブのポケットをしっかり手入れしていたおかげです。革が乾いたグラブと、しっとりと手入れされたグラブでは、ボールの収まり方がまったく違うんです」
その違いを、ヌートバーは誰よりも痛感している。
2021年、メジャーデビュー4試合目のピッツバーグ・パイレーツ戦。ライトを守っていたヌートバーは、似たような打球に前進してスライディングキャッチを試みた。しかし、グラブが地面に叩きつけられた衝撃で、ボールがこぼれ落ちてしまった。
捕球していればイニング終了となるはずだったが、ふたりの走者の生還を許し、追加点を与えてしまった。
「あれは本当に悔しかったです。プレー自体は完璧でした。でも、グラブを十分に手入れしていなかったせいで、ボールをしっかりつかみきれず、衝撃で飛び出してしまったんです」
野球は高いレベルになればなるほど、身体能力だけでなく、それを支える日々の細かな積み重ねが重要になる。
ヌートバーはイチローとの出会いを通じて、その大切さをあらためて学び、今季から新たなルーティンとして実践している。
【激痛を乗り越えて始まった新たな挑戦】
そんなヌートバーには、もうひとつ大きな変化があった。
それはグラウンドでの動きが見違えるほど軽やかになったことだ。長年、両足のかかとの痛みに悩まされていたヌートバーは、昨季終了後に専門医の診察を受け、「ハグルンド変形」と診断された。かかとの骨が突出し、アキレス腱と擦れ合うことで強い痛みを引き起こす疾患である。
本拠地ブッシュ・スタジアムは、グラウンドとベンチを行き来するたびに6段の階段を上り下りしなければならないが、それだけでも苦痛だったという。
「手すりにつかまらないと階段を降りられないくらいでした。痛みはなるべく表に出さないようにしていましたが、気づいたチームメイトには『そんなにひどかったのか』と驚かれました。もちろん試合中も痛みはありました。なかでも、走塁の時はつらかったです。でも『野球をやっていれば、いろいろ痛みはあるものだ』と思ってプレーしていました」
オフに両足の手術を受けた影響でキャンプ、そして開幕にも出遅れた。それでも6月5日にようやく今季初出場。「1番・レフト」で先発すると、第1打席で内野安打を放ち、痛みを気にすることなく走れる喜びを実感したという。
さらにタイムリー二塁打も放って勝利に貢献。
7月30日の時点(現地時間)で45試合に出場し、打率2割4分1厘、3本塁打、15打点、OPS.713を記録。まだまだ本調子とはいかないが、それでもその表情は充実感に満ちていた。
「外野で打球を追う時も、二塁から本塁まで全力で走る時も、あの激しい痛みはありません。手術して本当によかったです。もちろん、筋肉痛はありますよ。でも、去年までの痛みと全然違います。これからは、自分の身体能力を何の不自由もなく発揮できることが本当に楽しみです」
道具を大切にすること。自分の身体を大切にすること。そして、すべての結果を自分自身の責任として受け止めること──。イチローが語った哲学は、今、ヌートバーというひとりのメジャーリーガーの中で確かに息づいている。その答えがどんな未来につながるのか、これからのプレーが教えてくれるはずだ。
ブラッド・レフトン●文 text by Brad Lefton










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