次代を担う逸材たち~アマチュア野球最前線
第26回 都立雪谷・松岡史穏

 都立雪谷高校のエース・松岡史穏(しおん)は戸惑っていた。

 今年7月、東東京大会4回戦の東亜学園戦。

初回に3点の援護をもらってマウンドに上がったが、どんな球を投げても高めに浮き、ストライクが入らない。4者連続四死球に適時打、暴投、さらにはボーク......。気がつけば、2回を終えた時点で6点を失っていた。

 ところが、2回終了後に雷の影響で試合が中断。一度は再開されたものの、3回裏に再び雷が鳴り、継続試合として翌日に持ち越されることになった。混乱する松岡に、思いがけず一晩の猶予が与えられたのだ。

 そんな松岡のもとに、一本の連絡が届いた。

「悪い顔はしていなかったぞ。だから明日は頑張れ」

 メッセージの送り主は、雪谷の前監督である伊達昌司氏(現・杉並高校)だった。

【ドラフト2026】都立から唯一のプロ志望届提出 最速148...の画像はこちら >>

【プロを夢見る少年が都立を選んだ理由】

 今年、プロ志望届を提出した高校生は総勢127人。松岡はそのなかで唯一、都立校からプロ入りを目指している選手だ。

 多くの野球少年がそうであるように、松岡も幼い頃からプロ野球選手になることを夢見ていた。にもかかわらず、なぜ進学先に強豪私学ではなく、都立校を選んだのか。

「伊達先生がいらっしゃったっていうのと、(高校が)家から近いからです。雪谷なら自分のなりたい姿になれるんじゃないかって思いました」

 中学1年の頃から投手を志していた松岡だが、当時所属していたクラブチームではレギュラーの座をつかめず、外野手に転向した時期もあった。それでも、プロ野球選手になりたい。しかも、投手として勝負したい。その思いが揺らぐことはなかった。

 雪谷なら投手としてプレーできる。そして、当時監督を務めていた伊達氏は、かつてプロの世界でマウンドに立った経験を持つ人物だった。投手としてプロを目指す──。松岡にとって、雪谷こそが夢に近づくための最適な環境だった。

 周囲にもプロ入りの夢を力強く語り続けていた松岡だが、入学当初の球速は123キロ。1年夏からベンチ入りを果たしたとはいえ、決して目立つ存在ではなかった。2年春の時点でも、球速は140キロに届かなかった。

 現在、雪谷の監督を務める西山翔氏は、当時の松岡をこう振り返る。

「手足が長くて身長もある、スケールの大きいピッチャーになるなって感じはしました。ただ、その時は140キロは出ていなかったので、プロっていうのを考えた時には難しいかなって感じはしましたね」

【ケガがもたらした148キロへの進化】

 しかし、ここから松岡の急成長が始まる。熱心に取り組んだウエイトトレーニングの成果が表れ、2年夏には140キロの大台を突破。そして冬を越え、3年生になろうとしていた頃、投手人生を大きく変える転機が訪れた。

 それは、思いがけないケガだった。

 今年3月、松岡は練習試合で左脇腹の肉離れを起こしてしまう。高校生活最後の春は、まさかの戦線離脱から始まった。

「焦りはすごかったです。プロも行けないんじゃないかって。先生と面談しても『このままだとプロは厳しいんじゃない?』って感じでしたね」

 投げられない日々は約1カ月半に及んだ。だが、このケガが思いもよらない変化をもたらすことになる。

「脇腹をケガして、可動域が緩くなったんです。

体が回るようになって、感覚的に柔らかくなって投げやすくなりました」

 戦列に戻り、春の練習試合でマウンドに復帰した松岡は、自己最速となる148キロをマークした。

 西山監督も「球速に関してはすごく成長しましたよね」と目を丸くする。本人も最大の武器と認める力強いストレートは、ケガを乗り越える過程で、さらなる進化を遂げていたのだ。

【恩師のひと言で取り戻した自信】

 成長の手応えを胸に、最後の夏を迎えたはずだった──。ところが、初戦、2戦目を突破し、勝てば東東京大会ベスト16入りという東亜学園戦で、冒頭の大乱調に見舞われる。

 その原因は、夏の大会直前に変更したプレートの踏み位置にあった。もともとプレートの一塁側に立って投げていた松岡だったが、ある助言をきっかけに三塁側へと変更していた。

「ストレートの怖さがほしくて。『プレートの三塁側から投げたほうが打者も怖いし、ストレートも強くなるからいいんじゃない?』ってアドバイスをいただいたんです。でも、神宮でうまくハマらなくて......」

【ドラフト2026】都立から唯一のプロ志望届提出 最速148キロの雪谷・松岡史穏が挑む12年ぶりの快挙
都立のなかで唯一、プロ志望届を提出した雪谷の松岡史穏 photo by Sportiva
 頭では原因がわかっていた。しかし、試合の最中に、それまで取り組んできたことを捨てるのは簡単ではなかった。そんな時、雷による中断で一晩の時間が生まれ、伊達前監督から激励のメッセージが届いたのだった。

「高1、高2の時は『いい顔して投げろ』って(伊達前監督に)言われていたんです。

打たれた時に顔に出すタイプだったんで」

 打たれても、苦しくても、感情を顔に出さずに投げろ。それは、伊達前監督から繰り返し教えられてきたことだった。だからこそ、大乱調に終わった夜に届いた「悪い顔はしていなかった」というひと言が、松岡の心を前向きにさせた。

 プレートの踏み位置を元に戻すことにも「ビビっていた」という。だが、もう迷っている場合ではなかった。

「自分が完璧なピッチングをしないと勝てないとわかっていたので。やってやろうって気持ちでしたね」

 翌日、松岡は再び神宮のマウンドに立った。2点ビハインドの3回裏、無死一塁。試合の状況は、もちろん前日から何ひとつ変わっていない。ただひとつ違ったのは、プレートを踏む位置だった。松岡は以前の一塁側に戻していた。

 すると、再開後は打者3人を抑え、この試合で初めて無失点のイニングをつくった。

4回、5回もゼロを並べると、6回には初めて三者凡退に抑えた。

 残念ながら打線の反撃は及ばず、雪谷は5対9で東亜学園に敗れた。松岡の高校野球は、ここで幕を閉じた。

 それでも、前日とは別人のような投球を見せた2日目について、松岡は充実した表情で振り返った。

「やりきったと思います。1日目は本当にダメだったけど、2日目にちゃんと修正できたってところが、自分のなかでは成長できたポイントだったんじゃないかな」

【都立からプロへ、12年ぶりの快挙なるか】

 中学時代にレギュラーをつかめなかったこと、3年春のケガ、そして最後の夏に味わった大乱調。傍から見れば、決して順風満帆とは言えない野球人生だった。ところが、松岡自身の受け止め方はまったく違っていた。

「最後の夏の大会は思うようにいかなかったなって思うんですけど、成長で伸び悩んだ時期はないかな。ずっと伸び続けていたと思います」

 プロ野球選手になるという夢を捨てなかったこと。投手というポジションにこだわり続けたこと。そして、日々の努力を球速という目に見える成長につなげてきたこと。

思いどおりにいかない時期も、松岡は自分の可能性を疑わなかった。強い意志と野球への情熱があったからこそ、これまで歩んできた道のりに確かな自信を持っているのだろう。

 そもそも、なぜそこまで投手にこだわるのか。そう尋ねると、松岡は屈託なく笑った。

「けっこう欲が強めで、目立ちたいっていうのがあります」

 人のよさそうな笑顔とは裏腹に、内に秘めているのは強烈な負けん気と目立ちたいという欲。その姿は、西山監督が評する「根っからの野球小僧」そのものだった。

 これまで都立高校から大学や社会人を経ず、直接ドラフト指名を受けた選手は、横川雄介(日野→巨人)、高江洲拓哉(府中工業→中日)、鈴木優(雪谷→オリックス)の3人しかいない。松岡が指名されれば、都立高校から12年ぶり、史上4人目の快挙となる。

 はたして、運命のドラフト会議で「松岡史穏」の名前は呼ばれるのか。雪谷OBでもある筆者は、その瞬間を心待ちにしている。

杉田純●文 text by Jun Sugita

編集部おすすめ