〈宮沢りえ・女優デビュー作〉『ぼくらの七日間戦争』作者・宗田理さん死去。「当時から圧倒的な存在感」共演者が語る大女優の少女時代と今も記憶に残る「ふんどし」「ヘアヌード」「ぶっとび」
〈宮沢りえ・女優デビュー作〉『ぼくらの七日間戦争』作者・宗田理さん死去。「当時から圧倒的な存在感」共演者が語る大女優の少女時代と今も記憶に残る「ふんどし」「ヘアヌード」「ぶっとび」

4月8日、『ぼくらの七日間戦争』をはじめ累計販売部数2000万部を超える「ぼくら」シリーズを執筆した作家の宗田理氏が風邪で入院後に肺炎を起こし、名古屋市内の病院で死去した。95歳だった。

同作の実写映画は当時、中学生だった宮沢りえが女優デビューを果たし、日本アカデミー賞新人賞を受賞した作品としても知られる。「女優・宮沢りえ」の原点となる作品を生み出した巨匠の訃報を機に、彼女の波瀾万丈の軌跡を振り返りたい。

デビュー当時から圧倒的な存在感

宗田理氏の同名小説を実写映画化した1988年公開の映画『ぼくらの七日間戦争』は、校則や体罰により抑圧された中学生が大人たちに反旗を翻す様を描いた青春ムービーの名作だ。

この作品が女優デビュー作となった宮沢りえは、当時15歳。「三井のリハウス」のCMで初代リハウスガール「白鳥麗子」を務めたことで全国的な知名度と人気を得たが、演技は未経験。しかし、とても初挑戦とは思えない、フレッシュかつ落ちついた芝居で注目を集めた。
当時、宮沢本人を直撃インタビューしたこともある芸能ジャーナリストの城下尊之氏は言う。

「1987年4月から放送されたCM『三井のリハウス』の美少女転校生として登場した宮沢さんは理想の女子学生像そのもの。全国の男子学生の心をわし掴みにして『リハウス』という言葉を全国区にしました。
CMのスタッフからも『彼女は勘がいい』『覚えるのが早い』と評判で、バイオリンの演奏シーンも未経験ながら1週間でものにしたとか。

映画公開時のインタビューを受ける姿勢もとても好印象でしたね。『中学生役の共演者11人で変装して映画館に観に行こうって話をしてるの。私の中学の担任の先生も[真っ先に観に行くよ]って言ってくれてるんですよ~!』と笑顔で話してくれた。

本当に愛らしい笑顔と人の心を掴む魅力に溢れた女優さんでしたよ」

メインキャストは11人の個性的な中学生たち。中でも異彩を放ったのが、秀才少年の中尾和人役の大沢健さん(当時14歳)。家出をして廃工場に立てこもった11人が仲間割れした際に「帰るんだったらさっさと帰れ! 僕はたとえひとりになってもここに残る!」と叫んで仲間たちをつなぎ止める重要な役割を演じた。現在49歳の大沢さんは当時の宮沢さんの印象をこう語る。

「あのころの宮沢りえちゃんはそれまでに見たことないくらい圧倒的な存在感でした。日本人離れしたスタイルと大人びた雰囲気をすでに持っていて、まだ声変わり前で身長も低かった私と比べると雲泥の差(笑)。


彼女が演じる生徒会長・中山ひとみ役は早熟な面もあって、まるでりえちゃんそのもののようでした。奥手だった僕は当時、りえちゃんにそんなに親しげに話せなかった記憶があります。でも合宿のような状態で撮影が進んでいくうちに打ち解けてきて、共演者の間で団結力が生まれていきました」

「将来は外国映画のスターになれたら…」

宮沢が撮影の合間などで受けたインタビュー(「週刊明星」1989年4月20日発売号)を読むと、彼女の女優への本気度が当時から相当高かったことが伺える。

「ところで、3月に中学を卒業したりえは、高校へ行くのをやめた。りえは決めたんだ、もっと実際の生活で役に立つ英会話とか、フランス語とかを勉強しようってね。それで“フランスとかアメリカに住んでみたい”という夢をかなえようってね。将来は外国映画のスターになれたらいいなと思ってる」

宮沢は本作で日本アカデミー賞新人賞を受賞。

翌年の1989年4月からはドラマ『青春オーロラ・スピン スワンの涙』(フジテレビ系)で初主演し、同年の大河ドラマ『春日局』にも出演している。さらに翌年の1990年1月にはドラマ『いつも誰かに恋してるッ』(フジテレビ系)で主演を果たすなどまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
『いつも誰かに恋してるッ!』で再び宮沢と共演した大沢さんが当時を振り返る。

「撮影の時間が押してスタッフがピリピリし始めても、りえちゃんがいるだけでその場の雰囲気が変わる。撮影が朝から晩まで続いても全然疲れた姿を見せない。ため息ひとつついているところを見たことがないし、いつもハキハキしててまるで太陽のような存在でした。


もちろんセリフ覚えもよくて、女優に必要な要素がそのときにすでにすべて備わってました」

本作で宮沢が演じた桜井理子の口癖、「ぶっとびー」は流行語にもなった。1990年4月5日発売号の『週刊明星』では撮影終了後の宮沢さんに直撃。その様子からも宮沢の底抜けの明るさが伝わってくる。

 「アッつー間の3ヶ月だったよね。毎日、学校に通うみたいに渋谷ビデオに通ってた。毎日、理子を演じて、合間に遊んでた。

ひかるちゃん(西田ひかる)と英語ごっこしたり、真木くん(真木蔵人)にクツもらったり…大沢くん(大沢健)からかったり…すっごく楽しかった。応援してくれたみなさん、ありがとう。りえはまたいつかやりたいな、同じメンバー、同じスタッフで…」

同年10月には続編『いつか誰かと朝帰りッ』が放送されており、彼女のこの言葉はすぐに実現したかたちだ。 

“元祖お騒がせ女優”としての一面も

また、1989年には小室哲哉プロデュースによる『ドリームラッシュ』で歌手デビュー。翌年の1990年、セカンドシングル『NO TITLIST』はオリコン1位を獲得して第41回NHK紅白歌合戦に初出場。活躍の場が広がるほどに、超多忙な日々を送っていたようで、前出の城下氏も当時の彼女をこう振り返る。

「16歳で“ふんどし姿”でカレンダーになったり、18歳でヘアヌード写真集『Santa Fe』を発売したりと、その過激なプロモーションでも世間の度肝を抜いていきました。
また、翌年には当時、関脇の貴乃花光司と婚約を発表するも2ヶ月で解消するなど、“元祖お騒がせ女優”としての一面も見せました。
ご本人も後のインタビューで10代から20代に過ごした日々について『言葉にできないほど混乱した長い思春期』とおっしゃってましたからね」

20代前半は激ヤセ報道や、“りえママ”こと母の光子さんに連れられロスへ移住して活動休止状態になるなど、女優人生の岐路に立たされた時期もあった。

「ですが、30代となって野田秀樹蜷川幸雄などの手がける舞台に多数出演し舞台役者として開眼。演技の幅が大幅に広がりました。さらに40代で7年ぶりに映画主演となった『紙の月』(2014年)では東京国際映画祭の最優秀女優賞を受賞しています。
若いころにはできなかったような難しい役どころも、このころにはしっかりと演じきれるようになっていましたね」(城下氏)

ステージママとして宮沢を世に送り出した母・光子さんは2014年9月に肝腫瘍のため死去。だが、その当日も宮沢は舞台『火のようにさみしい姉がいて』に出演していた。宮沢は母の死に際し、「(母には)最期に、生きるということの美しさと、すさまじさと、その価値を教えてもらいました」とのコメントを発表。

現在では名実ともに日本を代表する女優となっている宮沢。
そんな彼女の原点となった『ぼくらの七日間戦争』の作者、宗田さんもその活躍を今後も天国から見続けていくことだろう。

取材・文/河合桃子
集英社オンライン編集部ニュース班