
サイバーパンクの先駆的作品として、未だに根強い人気を誇る『ブレードランナー』だが、原作からそぎ落とした2つの設定があるという……。
膨大な資料と監督自身の言葉を手がかりに、作品が真に意味するものを読み解いた『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』より一部抜粋、再編集してお届けする。
『ブレードランナー』の背景には、ヒッピーたちへの違和感
『ブレードランナー』の原作はフィリップ・K・ディックが1968年に発表した小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。
舞台は未来のサンフランシスコ(当時ディックが住んでいた)。主人公のデッカードは賞金稼ぎ(バウンティハンター)。人間に混じって逃亡中のアンドロイドを狩り出して処分するのが仕事だ。
アンドロイドはメカニカルではなく、バイオ工学で造られているので肉体は人間と何も変わらない。唯一の違いは「他の生き物に感情移入できない」という点のみ。
それを判定するには「ヴォート・カンプ方式」と呼ばれる共感テストが使われる。「牛革の財布」「蝶の標本」「熊の毛皮の敷物」「生きたエビの料理」などの言葉に対する眼球の反応を測るのだ。
ディックがこの小説を書いた60年代後半のサンフランシスコは、サマー・オブ・ラブ、ヒッピー・ムーヴメントの真っ最中だった。
人間のように見えて内面がまったく理解不能なアンドロイドたちには、当時40歳のディックから見たヒッピーたちへの違和感が投影されているといわれる。
反乱アンドロイドのリーダー、ロイ・バッティは、アンドロイドのための新興宗教の教祖で、69年にロマン・ポランスキー監督夫人らを殺害したヒッピー・カルトの教祖チャールズ・マンソンがモデルだと思われる。
ディックは『電気羊~』を書いた直後、その映画化に関するアイデアをメモしているが、そのなかであっけらかんとデッカードとセックスするアンドロイド娘のレイチェル役にサンフランシスコのサイケデリック・バンド、ジェファーソン・エアプレインのボーカル、グレース・スリックをキャスティングしたがっていた。
サイバーパンクの先駆者に
『電気羊』の面白さは、誰がアンドロイドで誰が人間なのか、次第にわからなくなってくるところだ。警官デッカードは警官に逮捕されてしまう。
警官たちはデッカードがバウンティハンターとしてのニセの記憶を植えつけられたアンドロイドだと言う。デッカードは自分は人間だと思うが、それがニセの記憶ではないと自分でも確信できない。
「自分は自分でないかもしれない」「いや、存在すらしないのかもしれない」「自分は他の誰かの夢の登場人物かもしれない」。フィリップ・K・ディックはそんな不安を繰り返し描いた作家だ。
たとえば『流れよわが涙、と警官は言った』の主人公はある日、突然、自分に関するあらゆる記録がなくなってしまう。彼が彼であることを証明するのは彼の記憶だけだ。しかし、その記憶も作り物なのだとしたら?
「にせ者」の主人公はある日突然、敵のスパイとされてしまう。敵は自分そっくりのクローンを作って本物の自分と入れ替えた。それが自分らしいのだ。自分が自分であるという意識も記憶もコピーにすぎないというのだ。
アメリカのサイエンス・フィクションの世界でディックは異端だった。あまり科学的ではなく、SF的アイデアやパルプ・フィクションのスタイルを「現実とは何か」「人間とは何か」という実存的不安を描くための道具として利用していただけだったからだ。
そのため映画『ブレードランナー』公開直前の82年3月に死ぬまで経済的には不遇だった。しかし、ヨーロッパではカフカと同じく不条理を描いた作家として読まれており、死後、アメリカでもサイバーパンクの先駆者として評価された。
未来のフィリップ・マーロウ
1977年、売れない映画俳優のハンプトン・ファンチャーは友人のブライアン・ケリーと共同で出資して『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の映画化権を手に入れた。そして自らシナリオにまとめた。
ファンチャーの脚色で『電気羊』にあった2つの大きな要素が縮小された。
1つは「電気羊」。これは、核戦争でほとんどの動物が死滅した世界で飼われるロボット羊を意味している。本物の動物は大金持ちしか買うことができない、庶民の夢だ。この時代の人は、本物の動物を飼う行為ではじめて「人間」として認められる。
主人公デッカードは妻との夫婦仲が冷え切っており、アンドロイドを5人殺して賞金を稼げれば、動物を買って夫婦の心も癒されるだろうと思っている。人間たちは本物の羊を飼うことを夢見ている。
アンドロイドは電気羊の夢を見るのだろうか?というデッカードの疑問が書名の由来である。しかし、動物はファンチャーのシナリオでは小さな役割になった。
もう1つ、ファンチャーが縮小したのは「妻」だ。『電気羊』はジェイムズ・ジョイスの『オデュッセイア』ないし『ユリシーズ』に似た構成で、家を出たデッカードがサンフランシスコの街で地獄めぐりをした後、家に帰るまでの物語だ。
途中、セイレーンのような3人の女性アンドロイドに心を動かされるが、ついに敵を倒して帰ってきたデッカードを、冷たかった妻は優しく迎え、ほんのり温かいハッピーエンドとして幕を閉じる。しかし、ファンチャーはデッカードを女房に逃げられた男と設定し、妻をドラマから切り捨てた。
その代わりにファンチャーが強調したのは、ハードボイルド探偵ものの要素だ。『電気羊』はいちおう刑事が犯罪者を追う話だが、デッカードはフィリップ・K・ディックの他の小説の主人公と同じく泣き言ばかり言っているしょぼくれた小役人だ。
しかしファンチャーは、彼をレイモンド・チャンドラーが描く私立探偵フィリップ・マーロウのようなヒーローとした。舞台をサンフランシスコから、マーロウが活躍したロサンジェルスに移し、マーロウと同じソフト帽とトレンチコートを着せたのだ。
ファンチャーのイメージは『さらば愛しき女よ』(75年)でマーロウを演じたロバート・ミッチャムだったという。そして、マーロウ調の自嘲的な独白でストーリーを進めることにした。これはハリウッドのフィルム・ノワールの手法だ。
文/町山智浩
〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀
町山智浩