
星城高で2年連続の三冠、高校で「六冠」という前代未聞の実績を引っ提げ、石川祐希が中央大の門を叩いたのは2014年。同年には日本代表登録選手に選出され、アジア大会に出場。
高校時代のプレーに「なんとしても欲しい選手」
――石川選手を初めて見た時、知った時はどんな印象でしたか?
松永(以下同)最初は僕がまだ現役時代、豊田合成トレフェルサ(現ウルフドッグス名古屋)で星城高が練習をしたことがありました。その時に祐希を見て、「バレーボールの技術やセンスは抜群だな」と。当時はまだ身体が細くてひょろひょろしていましたが、最初に見た時から「いい選手だな」と思いました。
その後、星城高で活躍する姿を中大の監督として見て、OBを含めた関係者も「なんとしても欲しい選手だ」と一致したので、僕はどうすれば祐希が中大に入りたいと思ってくれるか、大きなプレッシャーを背負っていたんです(笑)。
僕にできるのは彼の将来を含め、「こうやっていきたい」と熱い思いを伝えることぐらいしかなかったのですが、別の大学も選択肢にあったなか、「中大に行きます」と言ってくれた時は嬉しかったですね。思わず握手したのをよく覚えています。
――2学年上には関田(誠大)選手もいました。素晴らしいセッターがいる、というのも後につながる大きな要素だったのでは?
まずは身体づくりを考えてトレーニングもしっかりできる環境を、というのが一番でしたが、僕としてはやはり「誠大と一緒に頑張ってほしい」という思いはありました。高校生の時はそこまで考えていなかったかもしれませんが、大学からつながる今の関係を見ると、「よかった」と心から思います。
バレーボールをしている時と普段は別人
――入学してからの石川選手やどんな学生、どんな選手でしたか?
物怖じしない、マイペース(笑)。さらに言うなら、オンとオフが面白いぐらい違う、わかりやすい人間ですね。
やっちゃいけないとは言わないですが、高校と比べて大学は上下関係がより厳しいので、下級生でそんなことをやる選手はいないのに、彼は普通にやる(笑)。気持ちよくスパイクが打てた、バスケのゴールがある、シュートしちゃえ、という感覚なんです。
それぐらい、高揚している時の動きは何を考えているかわからないけれど、テンションが低い時はどこまででも低い。しかも負けず嫌いなので、他の選手たちがけん玉で遊んでいるところに「自分もできる」と最後に入ってきて、成功させるとドヤ顔をしたり(笑)。
今の祐希はものすごく大人で、リーダーシップに溢れた選手に見えるかもしれませんが、子どもっぽいところも多々ある。それも彼の魅力ですね。
――関田選手に関しては「頑固」とおっしゃっていましたが、石川選手はどうですか?
“THE武士道”が関田で、石川のほうがまだ柔軟かな。どちらも個性は強いけれど、やることはやる。手を抜くことがない。そういう共通点はありました。
――「日本代表に入ってほしい」という思いも同じでしたか?
大学に入った時点で比べるならば、関田以上に「早い段階で日本代表へ」と思っていたのは確かです。
中央大学という枠組みのなかだけで刺激を与え続けていても、彼のレベルになると「毎日、楽しいとは思わせられないだろう」と。
なんとか海外に行かせることはできないか、と考えていた時に、彼の持つ運が素晴らしい縁を引き寄せて、(セリエAの)モデナへ行く道が拓かれた。結果的にそこからの成長につながっていきましたから、イタリアへ行く選択肢があったことは本当によかった。
すごい世界で戦っていながら、根っこの部分は変わらず、バレーボールをしている時と普段は別人のように違う。関田とはまた違う意味で、祐希も本当に面白い人間です(笑)。
――確かにギアが入った試合はすさまじいですが、入らない時との落差は大きいようにも。
見てすぐわかりますからね(笑)。大学生の頃からバレーボールをしている時とそうでない時の落差も大きくて、食事に対しても「あれが食べたい」という欲がなくて「何食べる?」と聞いても「何でもいいです」と(笑)。こちらはできる限りおいしいものを食べさせたいと思うのですが、彼にとっては興味がなかったんでしょう。
今思い出しましたが、関田が4年生で最後の試合を終えた後、4年生たちと慰労会をしようとなって「何が食べたい?」と聞いたら「肉がいい」と。
キャプテンをしなかったことによる後悔
――それぞれの性格が出ていますね(笑)。中大時代の石川選手のプレーに関して、「一番すごかった」と思う試合は?
大学3年の全日本インカレ、東海大との決勝です。石川が1本目からとんでもないサーブを打って、相手選手の心をへし折った。8連続ポイントだったかな……あのサーブ、あの姿を見た時に「すごいな、とんでもないな」と思いましたね。
モデナで彼の試合を初めて見た時も、僕はイタリアで試合をしていること自体に興奮しているのに、リリーフサーバーとして出てきた石川は普通にトスを上げて、普通にサーブを打って、ブレイクした。
それもとんでもないことですよね。イタリアでも動じず強くなっていく祐希を見た若い選手たちが、この世界に惹かれるのもわかった。「若い子たちこそ早く行かせてあげないと」と思ったのも含め、いろんな意味のすごさがありました。
――石川選手は中大の4年時にキャプテンとなりました。その年はシーズン開幕から渡欧し、日本代表でもチームを離れることが多く、一時帰国で出場したインカレでは主将を離れました。
僕にとっても濃く、一生忘れられない経験です。高校でも祐希はキャプテンだったのですが、その時も今見せているようなキャプテンシーがあったか、と言われればそうではなく、プレー面で自分を強く出したり、押し切ることができるわけではなかった。
大学4年で「祐希をキャプテンに」と決めた時も、彼は4年になる段階で「イタリアに(シーズン)最初から最後まで行かせてもらえないなら、大学を辞めます」と言い切りましたから、彼が長く不在になることもわかっていた。
それでも僕のなかでは、たとえチームを離れていてもキャプテンとしてやりきってほしいという思いがありました。でも、実際は簡単ではないですよね。
全日本インカレ前に祐希が帰って来た時、キャプテンをどうするかを選手同士で話し合いました。祐希がいない間にキャプテンとしてまとめてきた選手がそのままやるか、祐希に戻すのか。
結果として別の選手がやることになり、祐希はキャプテンをしなかった。もちろん選手たちの選択ですから、僕は何も言いませんでしたが……その結果、後悔が残りました。
――その「後悔」とは?
準決勝の筑波大戦です。2セットを先取して、3セット目もリードしていた状況で、スパイクミスや相手にブロックされるシーンが続いてタイムを取りました。僕は「次は絶対に祐希だ」と思っていたし、祐希も「自分にトスがくる」と思っていたはずです。
でも、セッターとしてはスパイクミスをした選手に決めさせたい、という思いがあったんでしょう。その選手を選択した結果、連続失点が続いてフルセットでの逆転負けを喫しました。
あの時、僕はどうして「石川に持っていけ」と言わなかったのか。最近になって、取材や自分の本で祐希が当時を振り返っているのを見て、僕と同じような後悔をしているのを知りました。
「キャプテンだったら、あの一本は呼んだ」といった思いですね。今だから言えますが、僕は大会中に一切お酒を飲まないんですけど、あの夜は飲まずにいられなくて……。朝まで飲みましたが、どれだけ飲んでも酔えなかった。今思い返しても苦い経験ですね。
――翌日の3位決定戦勝利した後は、石川選手も松永さんも涙していました。
申し訳なくて。僕は「最後、圧倒して勝とう」と言うだけで、具体的な戦術を伝えられたわけじゃなかった。でも選手たちが、それまでやってきたことをすべて発揮している姿を見たら、「あぁ、この姿を決勝で見たかった。
試合が終わった時にウルっときたんですが、それを見た祐希が泣いているのを見て、僕も泣きました。
祐希は「理生さんが泣いていたから泣いた」と言っていますが、逆ですよ。最初に泣いたのは祐希です(笑)。でも本当に、負けたことよりも、貫くことができない自分の弱さ、未熟さ、技量不足を感じさせられました。でも振り返れば、それが今につながっている。間違いなく、(髙橋)藍にはつながっていきましたね。
取材・文/田中夕子
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