
相対性理論を発見し、世界を驚かせたアインシュタイン。「天才」という呼び名が最も似合うといってもいいこの大偉人は、50代から新たな挑戦を始めて、壁にぶち当たっている。
『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)より、一部を抜粋・再構成してお届けする。
50歳を前に挑んだ「統一場の理論」
1928年、50歳を前にして新たに挑戦した「統一場の理論」について、アインシュタインがやりたかったことは明白です。
それは、「自然界にあるすべての物理現象を一つの式で表す」ということ。重力と電磁気学を統一し、ただ一つの方程式で説明しようと考えたのです。
アインシュタインはこの年の暮れまでに研究を完成させ、1929年1月30日に発表しようと考えていました。
ところが、どこからか情報が洩れると、各メディアは大騒ぎに。一般の読者には理解できないにもかかわらず、ドイツ語で書かれた元原稿の複写や、訳として用いられた用語や記号などが、新聞の一面に大々的に掲載されました。
ノーベル賞受賞から8年が経過し、再びフィーバーを巻き起こしたアインシュタイン。
数日後に50歳の誕生日を迎えるにあたって、ちょっとした事件も起きました。
ベルリン市は、ハーヴェル河ほとりの別荘を、アインシュタインにプレゼントしようとしました。ところが、いざ手続きを進めようとすると、市は別荘を所有しておらず、すでに誰かに貸していたことが発覚します。
その土地をすでに気に入ってしまったアインシュタインは自分で別荘を建てようと、再婚した妻のエルザと一緒に何度も下見を繰り返す……という、よくわからない状況になってしまったとか。
何かと周囲が騒ぎ立てるなか、アインシュタインは仕事面でも多忙を極めます。
科学者ロバート・A・ミリカンからの「カリフォルニア工学研究所の客員教授になってほしい」という要望にも応えました。ブリュッセルに短期滞在し、ベルギーのアルバート国王とエリザベス皇后に面会したのちに、いったんベルギーに戻ってからアメリカへ向かいました。
渡米して5日間は講演や祝典に追われながらも、カリフォルニアの研究所に着くと、「統一場」の研究へと戻っています。
しかし、そんな研究活動は平和の上に成り立っていることを、アインシュタインは痛感することになります。
ナチスを批判して殺害者リストに入れられる
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領は、アドルフ・ヒトラーを首相に任命。ここに、ナチ党や国家人民党などの右翼勢力の連立によるヒトラー内閣が成立しました。
カリフォルニア州のパサデナで、統一場の研究をしていたアインシュタインは、大きな決断を下します。
「私は、故国へ戻らない」
ニューヨークで記者会見を開くと、アインシュタインはそう宣言し、二度とドイツに戻ることはありませんでした。
それも無理はありません。ナチスは公然とユダヤ人迫害を始めると、ユダヤ人で反戦活動を行うアインシュタインのことを敵視。相対性理論をインチキだと罵倒して、アインシュタインの著作を焼き払ったのです。
さらに「大量の武器が隠されている」という疑いから、アインシュタインの別荘の捜査まで行いました。
アインシュタインは移動中の船上からラジオを通じて、ナチスによるユダヤ人への無差別暴力を非難する声明を発表。それに対してナチスは、アインシュタインの銀行口座に手を出して、預金と有価証券をすべて没収するという暴挙に出ています。
しまいには、「アインシュタインを殺した者には5000ドルを与える」と懸賞金までかけました。身の危険を感じたアインシュタインが、アメリカへの移住を決めたのは、もっともな選択でしょう。
母国のドイツ以外のあらゆる国から講演の依頼が殺到していたアインシュタインは、1933年9月から1カ月、イギリスに滞在。ドイツから亡命してきた学者を援助する「亡命者救済基金協会」が主催する講演会でこう訴えました。
「もし自由がなかったならば、シェイクスピアもニュートンも、ファラデーも、パストゥールも、生まれてこなかったであろう。また、自由がなかったなら、鉄道もラジオも、人の住む立派な家も、世間一般の文化も、生まれてこなかったであろう」
アインシュタインにとっては、新しい挑戦に向けた意欲的な時期となるはずだった50代は、平和を脅かす陰鬱な雰囲気に覆われることになりました。どうしてみんな自分のことを放っておいてくれないんだ。そうため息ついた夜もあったことでしょう。
しかもプライベートでは、1936年に妻のエルザが闘病の末、60 歳で死去。アインシュタインは57歳にして、伴侶を失います。
天才ゆえの孤独とも闘いながら
アインシュタインを取り巻く状況を考えると、困難なことに挑戦することなどメンタル的にも難しそうです。しかし、アインシュタインの場合は、難題に取り組むこと自体が、何よりの楽しみだったのでしょう。
現実から逃れるように、アインシュタインはアメリカの地で、統一場理論の研究に情熱を注ぎました。
次第に社交の場からも足が遠のくようになります。アインシュタインの孤独は、同じ科学者でさえも癒すことはできませんでした。はるか先の研究を行うアインシュタインに、ついていける者は誰もいなかったからです。
結局、アインシュタインは統一場理論の研究に30年かけたものの、答えを見つけることができないまま、1955年に76歳で没しています。
「責任世代」と言われるように、仕事もプライベートも責任ある立場となり、ストレスをためやすいのが50代。予想外の出来事に心が折れやすい時期ともいえます。
それだけにアインシュタインのように、この時期に人生をかけないと解決できないような難問に挑むことは、周囲の喧騒から逃れる有効な方法かもしれません。
文/真山知幸
『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
真山知幸 (著)
渋沢栄一、マルクス、安藤百福、ファーブル、……
あの偉人はそのとき、
どんな転機を迎えたのか
「遅咲き」の人生には共通点があった!
古今東西 人生の先輩に学ぶ
折り返し地点を越えて挑戦する秘訣
後世で「偉人」と称された人のなかには、人生の後半で成功した「遅咲き」の人が少なくありません。
「遅咲き」とは単に「年齢を重ねたのちに成功した」ということだけではなく、「学生時代にはまるで期待されていなかったのに、世界を変えてしまった」ような人物のことも含まれるでしょう。本書で紹介したようなアインシュタイン、エジソン、山中伸弥さんは、まさにそのタイプの「遅咲き偉人」です。
本書は、いわゆる「大器晩成型」の偉人たちが、どのように中年期を過ごしたのかに注目しました。今まさに、多くの人が中年期に直面する「ミッドライフ・クライシス(中年期危機)」を、偉人たちはどう乗り越えたのでしょうか?(「はじめに」より)