ボブ・ディラン、初コンサートの観客はたった53人、ファーストアルバムは5000枚も売れず…「プロデューサーの道楽」と呼ばれた若き日々
ボブ・ディラン、初コンサートの観客はたった53人、ファーストアルバムは5000枚も売れず…「プロデューサーの道楽」と呼ばれた若き日々

1941年5月24日生まれで、今年84歳となるボブ・ディラン。全世界アルバム・トータル・セールスは1億2500万枚を超え、ノーベル文学賞を受賞したこともある伝説的歌手だが、その意外なデビュー頃の逸話をお届けしよう。

 

レコーディング契約を交わした10日後の衝撃コンサート 

ボブ・ディランの初コンサートが行われたのは、1961年の11月4日。場所はニューヨークのマンハッタン7番街と57丁目の一角を占めるカーネギー・ホールだった。

ただし、カーネギー・ホールといっても、音楽の殿堂として知られている大ホールではなく、リハーサルルームの一つ、チャプター・ホールが会場だった。

そして、客席100のホールには、53人の客しか入っていなかったとも言われる。だが、ディランは会場に客が少ないことで気落ちするようなことはなかった。

なぜならその10日前、レコード会社との間で正式にレコーディング契約を交わしたからだ。

そのニュースがニューヨーク中のフォーク・シンガーたちの間に広まると、誰しもが嫉妬を通り越して、歓喜の声をあげるようになったという。

グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスやクラブで歌っていた若い世代の男性フォーク・シンガーたちの中で、最初のレコーディング・アーティストが誕生しただけにとどまらず、契約相手はメジャーのCOLUMBIA(コロムビア)だったのだ。

しかもディランを見出したのがコロムビアの実力者で、伝説のプロデューサーと言われるジョン・ハモンドである。

ハモンドの祖父は、南北戦争で活躍したジョン・ヘンリー・ハモンド将軍であり、母方の祖父は海運や鉄道で財閥を築き上げた大富豪のヴァンダービルト家の出身だ。

名家の長男として生まれたハモンドは、ハーレムで聴いたビリー・ホリデイをベニー・グッドマンとの共演でレコーディング・デビューさせた。また、カウント・ベイシー楽団をカンザスシティのラジオ放送で聴き、彼らをニューヨークに招いて全国的な注目を集めることに成功した。

戦前はこうしてジャズ界を中心に活躍したハモンドだったが、1950年代後半にはピート・シーガーとババトゥンデ・オラトゥンジと契約し、当時18歳のゴスペル・シンガーだったアレサ・フランクリンも発掘している。

コロムビアでハモンドが手掛けるのであるならば、ディランの成功は約束されているかのように見えたかもしれない。

デビューアルバムは5000枚も売れず… 

ところがそれから半年後。最初のアルバム『ボブ・ディラン』がリリースされたが期待に応えられず、5000枚にも満たない売上に終わる。

コロムビアの役員たちは、ディランのことを「ハモンドの道楽」と呼ぶことになった。

ハモンドはそんなことでディランをレーベルから手放したりしなかった。

そして『風に吹かれて』をはじめ、『北国の少女』『戦争の親玉』『はげしい雨が降る』『くよくよするなよ』などを収録した、世界の音楽史に残るアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』が、1963年に誕生することになるのだ。 

ちなみに、このカーネギー・ホールの貴重なコンサートの音源は、後に『Carnegie Chapter Hall』としてブートレッグ(非正規品、いわゆる海賊版)で出回ることになった。

全14曲の内訳は、オリジナルが2曲、ウッディ・ガスリーのカヴァーが2曲、さらにフォークとブルースのトラディショナルを取り混ぜた内容だった。

今聴くと、言葉を吐き捨てるようなディラン独特の唱法が、アルバムをレコーディングする前にすでに完成していたことがわかる。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP  

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