「父親はヤクザ、母親に抱かれた記憶もない」ヘドロの川に面した6畳間で育った63歳ひきこもり男性の“逃げ続けた人生”
「父親はヤクザ、母親に抱かれた記憶もない」ヘドロの川に面した6畳間で育った63歳ひきこもり男性の“逃げ続けた人生”

佐野靖彦さん(63)は幼少期に親から十分な愛情やケアを受けられなかった。大人になっても他人とうまく関係を作れず、仕事を辞めて逃げることをくり返した。

30社近くを転々として経済的にも困窮。うつ状態になり、何度もひきこもることに……。いったい彼の人生に何があったのか。(前後編の前編) 

〈後編〉

「自分の感情は全部押し殺していた」

佐野靖彦さん(63)の生い立ちは壮絶だ。

岡山県で一人息子として育ったが、実は双子の兄と3歳下の弟がいる。生活が苦しくて両親が子を育てることができなくなり、兄は父方の祖母と伯母に引き取られ、弟は生後半年で国際養子縁組されてアメリカに渡った。

佐野さんが物心ついたときにはキャバレー勤めの母親と二人暮らしだった。間借りしていた6畳間は悪臭を放つヘドロの川に面しており、夜遅く帰宅する母を大家さんの家で待つのが日課だった。

そんな生活は、小学1年生のとき一変する。刑務所で服役していた父親が出所して戻ってきたのだ。

「うちの親父はね、ヤクザとしても中途半端で、仕事はするけど続かない。入れ墨彫っているから夏場でも絶対長袖だし、酒好き、女好き、博打好き。あちこちで金を借りては外で遊びほうけていたわけ。

家にいるのは金がないとき。で、その憂さを晴らすために、酒を飲んで母親を殴る。本当は気が弱いのに『口答えすな』っていうのが口癖で、うちの帝王だったから、逆らうことができない。

そんな中で育ったから、自分の感情は全部押し殺していた。母親は父親の顔色を窺い、自分の身を守ることで目いっぱい。他者をおもんぱかる能力がないっちゅうか、軽度の知的障害だったんだと思う。母親に抱きしめられた記憶は一切ないよ」

借金が返せなくなると、そのたびに一家で逃げた。引っ越した回数は、小、中学校で合わせて12回。小学校は3回変わった。クラスに馴染んだころに転校してしまうので、本音を話せる友だちもできなかった。

佐野さんが中学生のとき、両親は協議離婚したが、半年後には再び同居。

佐野さんは父親の母校である工業高校の建築科に進んだ。

サッカー部に所属し、夜8時に帰宅。11時から建築の設計の勉強を始め、朝方5時まで没頭。努力の甲斐があり、建築の知識やデザインを競う大会で金賞を獲得した。

「父親にほめられたいがために、アホみたいに勉強したっちゅうこと。賞を獲ればね、ほめてもらえると思うじゃん。で、親父に言ったら、『お前1人じゃないやないか』って。実は、金賞は全国で5人いたわけ。素直に喜べよって思ったけど(笑)、ヤクザって、カッコつけるから。母親からは『父親は俺を怖がっていた』と聞いたけどね」

会社からも恋人からも「逃げた」

高校卒業後は設計事務所に就職した。入社3年目に同じ高校出身の先輩が事務所を立ち上げ、佐野さんも誘われて移った。新しい事務所は少数精鋭で、高い技能を要求されたが、現場経験の少ない佐野さんは委縮して焦るばかり……。

「ずっと父親を怒らせないようにイエスマンに徹してきたせいか、わからないとかNOが言えなかった。相手に何か言われると、親父に怒られたときの恐怖が蘇ってきて、ビクッとしちゃう。

そういう本音を隠して働いて、我慢に我慢を重ねて、結局、逃げちゃった。『辞めたい』とも言えずに、バックレたんです」

そのころ佐野さんには付き合っている恋人がいた。相手は、行きつけだったお好み焼き屋の看板娘。2歳年上の彼女は結婚したがっていたが、佐野さんは会社をバックレただけでなく、彼女からも逃げてしまう。

「だって、自分が生きることに自信がないんだもん。相手を背負っていくだけの実力はないわな。彼女の通勤用に当時のお金で3万円以上した自転車を買って、『これ、クリスマスプレゼント』と鍵だけ渡してさ。粋なことをしていたわけ。でも、彼女に甘えられても、どうしたらいいのかわからない。

相手を信頼して“甘える、甘えさせる”っていう人間関係、知らないからさ。都合が悪くなると、親がしていたように、『逃げる』ことしかできなかったわけ」

バックレた代償は大きく、狭い建築業界内でこんなうわさが広がってしまう。

「あれだけ迷惑かけて、あいつまだ岡山にいるぜ」

佐野さんは2級建築士の資格を持っていたが、その後は、木工会社、工務店、販売店などを転々とした。

家賃と光熱費を払うため、肉体労働に就いたことも。だが、何の仕事をしても、人間関係がうまくいかなくなり、辞めてしまうことをくり返した。

「20代で働いた10社のうち、バックレは6社。短いところは1か月くらい。バブルで求人もいっぱいあったし、逃げても、探せば仕事はあると、高をくくってたっちゅうのもあるよ」

ユートピアを求めて共同体の暮らしに

23歳のとき、農業・牧畜業を基盤としたユートピアを目指す共同体に出会った。当時は全国で生産物の販売フェアを実施していたので、自分の仕事の合間に販売を手伝ったりしていた。

「もう一度設計をやりたいと29歳で設計事務所に入ったんだけど、そこからも逃げたから、岡山に居場所がなくなってさ。たまたま渡りに船って、その共同体に逃げたわけ」

最初は配送の仕事をしていたが、「もっと本格的にやりたい」と思って、手伝いだけでなく共同体の運営地で暮らすことにした。

だが、そこでも、孤立してしまう――。

「みんなで仲良く家族になろうみたいな理念があって、やっぱり、どっかでそういうものを求めていたんだな。でも、自分は人を信用できなかったから、本当に打ち解けるっちゅうこともなくて、家族愛がうっとうしくなっちゃう面もある。そこにいる人って、自分の親と仲がいいんだよ。会員同士の結婚も多かったけど、自分だけが異星人、異邦人で、結婚の話も来なかったしね」

結局、運営地には5年間いて、98年に36歳で社会に戻った。

何度もひきこもり、うつ状態に

再び、仕事を転々とする生活が始まる。年齢を重ねた分、仕事の職種も限られてくる。最初に勤めたのは都内の配送会社だが、同僚に馴染めず2か月で辞めた。地方の工場派遣の仕事は寮もあり、黙々と検品をする仕事で向いていた。

だが、年下の若い社員たちから「派遣なのに自分たちより正確で手早い」と妬まれてしまう。嫌がらせをされた挙句、クビを切られてしまった。

コンビニの面接を受けに行くと、事業主に「設計をやっていたようなインテリが、なんでうちみたいなところに来るんだ」と嫌味を言われ、父親に怒られたときの記憶がフラッシュバックしてしまったという。

「人間関係そのものが、どんどん怖くなっちゃった。で、家から出ないでひきこもって、仕事を辞める。ずっとひきこもっていると経済的に困窮するから、ご飯に塩だけの生活が続いたこともあるよ。で、焦って、次の仕事を決めて、また、ひきこもって辞めちゃう。17年間で15社以上変わってます」

どうにもならなくなり、1年ほど母親に生活費を援助してもらったこともある。

両親は岡山から逃げて関東を転々。神奈川県の専門学校で住み込みの管理人をしていたのだが、佐野さんが共同体で働き始めた年に父親が死去。その後、母親は1人で管理人を続けていた。

母親に頼むとお金は出してくれたが、相談には乗ってくれず、自分の愚痴を延々と話すだけ。「やっぱり、この人は自分のことばかりだ」とがっかりしたそうだ。

佐野さんは次第に、うつ症状に悩まされるようになった。前向きな気持ちになれず、眠れない。肩こりや頭痛もひどくなり、体のだるさがずっと続く。ある朝、仕事に行こうとしても起きられなかった。

家にひきこもっていると、いろいろな考えが去来した。

「ずっとうだつが上がらないまま、どんどん年齢を重ねていくじゃん。焦りもあるよ。不安もあるよ。何で自分はこんなに仕事が続かないんだ。生きづらいんだと絶望して。せめて死ぬ前に、理由が知りたいなと思ったんだよね」

そして、佐野さんは思い切って、ある場所を訪れる――。

〈後編へつづく『人生の最後に自分の正体を知りたくなった63歳のひきこもり男性が“笑う練習”をしたら…』

取材・文/萩原絹代

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