アフガニスタンの沙漠に用水路を拓き、多くの人命を救ったことで世界的に知られる医師・中村哲。没後6年にして、これまで語られざるその人生に迫った初の本格的評伝『炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅』が刊行された。
中村哲のルーツへ迫る
──中村哲さんに関する書籍は、ご本人が執筆されたものも含めて多々あります。しかし、生い立ちから医師になり、後に用水路建設をおこなうまで、これほど詳しく書かれた評伝はありませんでした。本書ではこれまで光が当てられてこなかった事実を次々と掘り起こし、中村哲さんの人間像に深く迫っています。なぜ、中村哲さんの来歴を深く掘り下げたノンフィクションを書こうと思われたのですか。
山岡淳一郎(以下同) 中村哲さんは、いまや教科書に出てくるような偉人です。が、生まれたときから偉人だったわけじゃない。いったい誰とどう出会い、どんな体験をして、悩んだり喜んだり、泣いたり笑ったりしながら、命を救う壮大な事業を展開する人物になったのか。その人間ドラマをとおして、中村さん、中村さんとともに歩んだ「名もなき人」たちの人生を浮かび上がらせたいと思ったからです。
カリスマ一人では、米軍が爆弾の雨を降らせるなか、トラック隊を編成して27万人分もの食料をアフガニスタンに運んだり、ヘリの銃撃を受けながら用水路を建設したりはできません。もちろん中村さんの大局観や戦略、人を巻き込む力はすごいのですが、ご本人が書いたり、語ったりしなかった(できなかった)ところに集団でことをなす大切なものがある、と思ったんです。
──前半、中村さんのルーツのひとつである母方の祖父・玉井金五郎さんと、伯父にあたる作家・火野葦平さんについての記述が非常に興味深く、印象に残りました。
玉井金五郎は、明治時代に愛媛の松山の農家に生まれ、青年期に石炭の積み出しで賑わう北九州に渡って、腕っぷしと度胸で、沖仲仕(港湾荷役労働者)を束ねて「玉井組」を立ち上げた親方です。
──金五郎さんの写真を見ると、面差しが中村さんによく似ていて、驚きます。
金五郎と、孫の哲さんは見た目も瓜二つで、性格も似ていたと、中村さんの従弟の玉井行人さん(サッカーJ3・ギラヴァンツ北九州会長)からうかがいました。中村さんは伯父の葦平を敬愛していたし、少年期には自分も伯父のような物書きになりたい、と心を許した人に語っていました。
伯父は芥川賞受賞のベストセラー作家
──火野葦平は戦前、『糞尿譚』で芥川賞を受賞した後、従軍小説の『麦と兵隊」が100万部を超えるベストセラーになった作家です。戦後も旺盛に執筆活動をされて、代表作に『花と龍』がありますが、この作品は玉井金五郎とその妻・マンをそのまま主人公に据えた実録小説ですね。
拙著のタイトル『炎と水』は、中村さんが敬愛していた火野葦平の『花と龍』へのオマージュです。「龍」は、背中に「昇り龍」の刺青を入れて荒くれ者を率いた金五郎の侠気(おとこぎ)や力強さ、「花」は妻・マンの優しさ、気高さを象徴しています。マンは暴力的な世界に身を置く金五郎を支えました。葦平は、夫婦(両親)が調和し、子分を率い、激動の時代を生き抜く姿を描いたわけです。
一方、『炎と水』の「炎」は、人間がアフガニスタンにもたらした戦火、旱魃(かんばつ)や地球温暖化による災厄であると同時に中村さんが金五郎から受け継いだ侠気や情熱、一種の任侠です。
──火野葦平の活躍ぶりをリアルタイムで知らない方も多いと思いますが、あらためて調べると戦前・戦中・戦後それぞれに作家として一世を風靡し、膨大な量の原稿を書いています。ところが、1960年に遺書を残して自ら命を絶ちました。そのことは、中村さんにどんな影響を及ぼしたのでしょうか。
哲少年が中学2年に上がる年の1月に憧れの伯父、火野葦平は自死しました。ちょうど、そのころ、いつも後を追っかけて遊んでいた「兄」が、実は養子で「従兄」だったということが判明し、兄は家出をしてしまうんです。思春期の哲少年は、非常に悩んでいたと母親の秀子さんは語り残しています。
そうした事情もあり、哲少年は、中学3年の12月にキリスト教プロテスタントのバプテスト派に入信し、浸礼(バプテスマ)を受けたようです。これは、水槽に張った水に頭の先から足先まで、全身浸かり、身を起こす儀式です。過去の自分は水中で滅び、新しくキリストとともに生きる、と。
『炎と水』の「水」には、この浸礼の水の意味も込めたのですが、葦平の死は、哲少年の再出発のターニングポイントだったと私は思います。
北九州とアフガンの共通点
――山岡さんは今回の執筆にあたり、北九州の若松も、アフガニスタンも取材されていますが、双方の土地について、何か共通する匂いのようなものはあったでしょうか。
石炭産地の筑豊から、積出港の若松にかけて、遠賀川(おんががわ)流域には「川筋気質(かたぎ)」があるといわれています。これは、理屈をこねず、弱きを助け強きをくじく、義理人情に厚い、そんな気風です。多民族国家のアフガニスタンの最大勢力で人口の4割強を占める「パシュトゥン人」のなかにも似たような気質が感じられました。
「パシュトゥンの掟(パシュトゥーンワーリー)」と呼ばれる不文律があり、名誉を重んじよ、訪ねてきた客人は歓待して保護せよ、侮辱や殺害、財産の侵害には報復せよ、といった規範が守られています。そこに北九州の川筋気質に通じる任侠を感じました。
――玉井金五郎を源流として、火野葦平に受け継がれた任侠の流れが、中村哲さんに引き継がれ、アフガニスタンの地に注がれ、パシュトゥンの掟と響き合ったような印象を受けます。
中村さんは最終的にアフガニスタンで、現地の数百人の農民とエンジニア、そして日本から渡航したワーカーの若者たちを率いて、用水路を建設し、沙漠だったところに農地を拓く。その行程は、まさに命がけの難事業の連続でした。中村さんは、スタッフハウス(職員宿舎)の自室に玉井金五郎の写真を掲げていました。若松の玉井家が育んできた仁義を重んじ、弱い者を助ける任侠とつながっている気がします。
アフガニスタン取材に関して、集英社学芸編集部のウェブマガジン『学芸の森』で「中村哲を求めて 取材旅4万2000キロ」という紀行文を掲載しています。
後編に続く
取材・文/集英社学芸編集部
炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅
山岡 淳一郎
父は共産党活動家、母は玉井組の親方の娘。15歳で自らの意思で洗礼を受け、学生運動で検挙された青春時代……戦乱と大旱魃のアフガニスタンで90万人以上の命を救い、2019年12月、正体不明の武装集団の凶弾によって命を落とした医師・中村哲とは、いったいどんな人間だったのか。その生涯にわたり中村が巡り合い、深く関わった様々な人びと100人以上に著者はインタビューする。福岡、鹿児島、岡山、静岡、神奈川、東京、パキスタン、そしてアフガニスタンと約5年に及ぶ取材を敢行。群像のなかから鮮やかな「人間・中村哲」の姿を立ち上がらせる。大勢の人生を巻き込み、滔々と流れる大河のような中村哲を源流までさかのぼり、生い立ちから死まで描いた驚くべき本格的評伝、圧巻の452ページ。今こそ読まれるべき「人間・中村哲」の真実。
【目次】
プロローグ 水が天に昇る谷
第一章 革命の炎
第二章 同志
第三章 浸礼――永遠の別れ
第四章 青春漂流
第五章 失われた世代
第六章 空爆とナン
第七章 冬の陣
第八章 口紅
第九章 カカムラ!
第一〇章 帰還
あとがき 神と出会った男、神になりたかった男

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