政府が推進し、ついに法案が成立した高額療養費の自己負担上限額引き上げ。その背景には「異次元の少子化対策」こと「こども未来戦略」の財源確保という隠れた意図があったとされる。
書籍『高額療養費制度 ひろがる日本の〈健康格差〉』より一部を抜粋・再構成し、いかにして政府側の思惑がめくれていったかを考察する。
背後に「異次元の少子化対策」あり
そもそも、なぜ厚労省は、高額療養費制度の自己負担上限額引き上げに着手したかったのか。換言すれば、この引き上げで患者の自己負担が上がる(=公費負担分が減る)ことによって見込まれる国民医療費の歳出削減を、なぜそんなにも急いで2025年度の予算案に盛り込みたかったのか、ということだ。
ヒントのひとつは、先の「毎日新聞」記事に記されている、「新たに始まる少子化対策に伴い、政府は社会保険料抑制に向けて社会保障制度の改革に着手しなければならない状況にある」という一節だ。
2024年11月21日の医療保険部会でも、厚労省担当者が「あるいはこども未来戦略との関係もございますけれども」と発言している。
この「こども未来戦略」とは、少子化や人口減少を食い止めるために岸田内閣が203年6月に打ち出して同年末に閣議決定された、子ども・子育てに国家を挙げて取り組む強化策のことだ。
「次元の異なる少子化対策」というフレーズが、当時はメディアなどでも多く取り沙汰された。このこども未来戦略で計画するさまざまな少子化対策や子育て関連手当の拡充では、2024年度から2026年度まで集中して取り組む「加速化プラン」に必要な予算が3,6兆円規模とされた。
その歳出に必要な財源は、増税ではなく従来予算の活用と歳出改革の徹底で賄う、ということがこの「次元の異なる少子化対策」の大きなセールスポイントでもあった。
このこども未来戦略加速化プランに必要な「子ども・子育て支援金」をどこからどう捻出して調達してくるかという概要は、こども未来戦略の閣議決定後に開催された、こども家庭庁の第5回子ども・子育て支援等分科会(2024年2月19日)の資料*1で示されている。
そこでは、必要な3,6兆円を賄う歳入は「既定予算の最大限の活用等」で1,5兆円、「歳出改革の徹底等」で2,1兆円(内訳は「公費節減の効果」1,1兆円と「社会保険負担軽減の効果」1兆円)を見込んでいることが、矢印を用いて図示されている。
なかでも「歳出改革の徹底等」という枠囲みに伸びる矢印の元にある「社会保険負担軽減の効果」の隣には「社会保障改革の徹底(改革工程を策定)」と記されており、そのことからも、改革工程の推進でこども未来戦略の加速化プランに必要な金額を捻出しようと考えていたことがわかる。
ちなみに、2023年12月22日に行われた第二回こども政策推進会議では、当時の新藤義孝内閣府特命担当大臣が「『改革工程』に沿って、全世代型社会保障制度を構築する観点から、2028年度までに徹底した歳出改革を行い、それによって得られる公費節減の効果と社会保険負担軽減効果を活用します。この公費節減の効果で、1,1兆円程度となります」と説明している*2。
この「社会保障改革の徹底」で削減できると見込んでいた金額は、2024年12月27日に財務省が発表した2025年度政府予算案の資料(*3)13ページの図「令和7年度社会保障関係費の全体像」で示されている。
この資料によると、高額療養費からの調達はざっくりと200億円程度と見積もられていたようだ。
なお、酒井なつみ衆議院議員の予算委員会質問(1月31日)で、高額療養費の自己負担上限額引き上げによる予算削減額を酒井議員が訊ねた際に、厚労省の鹿沼均険局長は「来年度予算への影響につきましては、限られたものとなりますが、引き上げがない場合に比べて国費で約200億円減少となります」と回答している。答弁内容は、財務省政府予算案資料の数字とも、当然ながら一致している。
「持続可能性を高めるために改革を」というロジックのウソ
高額療養費制度の自己負担上限額引き上げは、国会の論戦などで石破首相や福岡厚労相が「国民医療費の倍のスピードで高額療養費が上昇している」「非常に高額な薬剤が近年は増えている」「次の世代においてもこの制度を持続可能にしなければならない」等々の理由を何度も述べてきた。
彼らの主張は、高額療養費制度に内在する理由のために自己負担額を引き上げなければならないのだ、というロジックだった。
しかし、ここまで見てきたことからわかるように、「引き上げなければ制度が持たない」と政府関係者たちが言っていたことは、引き上げをもっともらしく思わせるための、いわばあとづけの理由で、むしろ、高額療養費の自己負担上限額を引き上げることによって公費負担分を抑え込み、それで削減できた費用を子ども・子育て支援金に回したいから、という外在的な由がむしろ本音に近い部分で先行していたように見える。
現役の与党政治家や官僚が「こども未来戦略に必要な資金を捻出するために高額療養費の出費を抑え込む必要がある」と公の場で明言したことは自分の知る限りではなかったように思うが*4、ここまで見てきた各官庁の資料を並べて俯瞰すれば、そのようなストーリーは自然と浮かび上がってくる。
ただ、こども未来戦略の予算は社会保障にかかる費用を削減することで捻出するという方法自体は、当時の岸田政権が「このプラン実行で国民の負担を増やすようなことはしない」と喧伝してきた既定路線ではあった。
釈然としないのは、その社会保障費用削減の対象として、改革工程でも着手時限などを特に定めていなかった、しかも医療のセーフティネットである高額療養費制度に、なぜあえて白羽の矢を立てたのか、ということだ。
そのヒントになる記述が、高額療養費〈見直し〉案が厚労省の医療保険部会で議論され始めた時期の2024年11月28日の「朝日新聞」に掲載されている。
「厚労省幹部は『できるなら見直しは避けたい』と話す。それでも引き上げざるを得ないのが子ども関連政策の財源捻出のためだ。昨年末に閣議決定した『こども未来戦略』は、児童手当の大幅拡充など年3,6兆円規模の対策を盛り込んだが、うち1,1兆円は、2028年度までに社会保障の歳出削減で賄う」「数ある項目の中から(高額療養費が)選ばれたのは、法改正を経ずに閣議決定で制度改正できることなどが要因だ」(カッコ内補足と傍点は筆者)
同様の記述は、2025年度の予算案閣議決定に関連して高額療養費の〈見直し〉案を伝える12月27日の「朝日新聞」記事「社会保障費の抑制に腐心 『高額療養費』見直しで年1600億円削減」で、前記の吉備彩日記者が再度言及している。
「厚生労働省内にも『できれば手をつけたくない』(幹部)という声があった。だが、法改正を経ずに閣議決定で制度改正できることから、医療費の窓口負担増などよりも政治的ハードルが低いとみられ、削減項目として選ばれた」
さらに日を遡れば、2024年6月の「毎日新聞」記事にも、「法改正が不要な高額療養費の見直し」(傍点筆者)という一節がある。これらの新聞記事でさらりと記されている、高額療養費の制度変更に法改正が不要、とはいったいどういうことなのか?
高額療養費制度の根拠法は健康保険法などだが、その健康保険法*5 第五節「高額療養費及び高額介護合算療養費の支給」の第15条第2項には、以下のような記述がある。
「高額療養費の支給要件、支給額その他高額療養費の支給に関して必要な事項は、療養に必要な費用の負担の家計に与える影響及び療養に要した費用の額を考慮して、政令で定める」(傍点筆者)
政令ならば、国会で法案として時間をかけて議論しなくても、内閣が閣議で決定できる。先に紹介した新聞記事で「法改正を経ずに閣議決定で制度改正できる」「法改正が不要」と記しているのはそういうことだ。
実際に、2015年に現役世代の収入区分を三段階から五段階へ変更したときも、2017年に高齢者の自己負担上限額を引き上げたときも、法律の改正ではなく、すべて政令で変更が行われたが、大きな反発などは起きていない。
そもそも高額療養費制度を利用している人々は国民全体の中でもごく少数だろうから、自己負担上限額を引き上げる決定を行っても従来の制度変更同様に抵抗が少ないだろう。そんな読みの甘さが、おそらくは霞ヶ関関係者の中にはあったのではないか。
SNSでの拡散がなければ石破首相にも届かなかった
しかし、実際には制度利用者や医療者、学術界の反発は予想以上に大きく、国会の予算委会で与野党議員を巻き込んで世論の注目を集める大きな事態に発展してしまった。
そして、自己負担上限額を引き上げたい本当の理由は、医療保険制度の持続可能性というよりもむしろ、政府の予算調整という身も蓋もない理由であったのだろうという本音まで露呈してしまった。このお粗末な背景事情は、「一時凍結」決定を総括した新聞記事やニュース報道でもたびたび指摘された。
とはいえ、いずれの記事やニュースも、おそらくは文字量や紙幅、放送時間などの関係からごく簡単な事情説明に留まったものが大半だった。一方で専門家の論文では、俯瞰した視点から腰の据わった検証や的確な批判が複数発表されている*6。
ともあれ、2024年に政府が目論んだ高額療養費の自己負担上限額〈見直し〉案は、一時凍結に至った。そして春以降に議論が仕切り直しとなった厚労省医療保険部会やその下部組織として設置された高額療養費の専門委員会では、医療保険制度改革全体の中に高額療養費制度を位置づける、という方向で議論が進められていった。
その結果、2025年12月末に厚労省が提示した新たな〈見直し〉案では、現役世代の高額療養費自己負担上限額は、多数回該当の従来金額を維持し、新たに年間上限額の設定を盛り込むなど、専門委員会に参加した患者団体の意見がある程度反映された内容になった。
ただし、所得区分は凍結案同様に一三へ細分化されている。わずかな社会保険料抑制のために高額療養費を使用する人の負担を引き上げる、という構図も凍結案同様だ(表2)。
いずれにせよ、2024年晩秋に顕在化した政府の高額療養費制度〈見直し〉案が2025年3月にいったん全面凍結され、その後の議論を経て制度利用者の声がある程度政府案に反映されてゆく過程では、SNSが非常に大きな役割を果たした。
SNSを通じた情報拡散がなければ、患者団体の緊急アンケートや反対署名はあそこまで広がらなかっただろうし、患者たちのアンケート回答が国会論戦で引用され、ひいてはそれらが石破茂首相の手元に届くこともなかっただろう。
また、その後に創設された専門委員会の議論がリアルタイムに世の中へ広く伝わることも、SNSがなければありえなかっただろう。
そうやってSNSを活用することで高額療養費制度〈見直し〉案の問題点を世間に広く知らしめた立役者であり、政府〈見直し〉案に歴史的な方向転換をさせた功労者のひとりが、全国がん患者団体連合会理事長の天野慎介氏だ。
文/西村章
註
*1「資料2:子ども・子育て支援法等の一部を改正する法律案の概要」第5回子ども・子育て支援等分科会、二〇二四年二月一九日。
https://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/481073ad-6d4f-4ddb-9f39-13370dbcef18/6b455775/20240219_councils_shingikai_kodomo_kosodate_YQvq3ixl_03.pdf
*2「こども政策推進会議(第2回)」、こども家庭庁、二〇二三年一二月二二日。
https://www.cfa.go.jp/councils/suishinkaigi/1bP4fnMp
*3「令和7年度予算政府案・社会保障関係予算」
https://www.mof.go.jp/policy/budget/budger_workflow/budget/fy2025/seifuan2025/13.pdf
*4 ただし、厚労省OBの中村秀一氏は「社会保険旬報」二〇二五年四月一日号に寄稿した論考「高額療養費―失敗の本質(霞が関と現場の間で(62))」(二一ページ)の中で「高額療養費の見直しが必要となったのは、岸田内閣が決定した『こども・子育て予算の倍増』を『国民の負担増なし』で実現するとしたことにある。そのために1・1兆円の公費節減、1兆円の社会保険負担の節減が必要とされた。これについて厚生労働省がさしたる抵抗もせずに受け入れたことが、最初の失敗である」と、明確に批判している。
また、健康保険制度や診療報酬を審議する厚労省の諮問機関、中央社会保険医療協議会会長の小塩隆士氏は、「(講演録)社会保障改革の現状と課題」(「週刊社会保障」二〇二五年一〇月二〇日号、三八―四三ページ)で、「高額療養費を含めた社会保障給付費の削減で、子育て支援に必要な1・1兆円を捻出するという話である。(中略)効果のない子育て支援策のために、国民皆保険の岩盤に手をつけてよいのかと言われれば、私は明確に反対する」と述べている。
*5 e-Gov 法令検索「健康保険法(大正十一年法律第七十号)」
https://laws.e-gov.go.jp/law/211AC0000000070
*6 以下のような論文がある。
・三原岳(ニッセイ基礎研究所)「政策形成の『L』と『R』で高額療養費の見直しを再考する―意思決定過程を詳しく検討し、問題の真の原因を探る」二〇二五年二月一七日。
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=81141?site=nli
・成瀬道紀(日本総研)「高額療養費制度を巡る政策のあり方 ―必要な医療へのアクセス確保と非効率な医療の抑制の両立に向けて―」二〇二五年七月三一日。
https://www.jri.co.jp/page.jsp?id=111729
・二木立(日本福祉大学元学長)「私が高額療養費制度の患者自己負担増に強く反対する理由」、「文化連情報」二〇二五年四月号、二八―三七ページ。
https://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/data/20250405-niki.pdf
・安藤道人(立教大学教授)、河田純一(東京大学医科学研究所特任研究員)「高額療養費改革案はどう見送られたのか:2024年度案の政策形成・修正過程と患者運動」、「医療経済研究」vol.37、No.1、二〇二五年、二九―四三ページ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhep/37/1/37_2025.05/_pdf/-char/ja
・安藤道人「高額療養費の負担限度額引き上げ案はどう『拙速』だったのか」、「都市問題」二〇二五年八月号、四―一三ページ。
https://researchmap.jp/michihito_ando/misc/51033586/attachment_file.pdf
高額療養費制度 ひろがる日本の〈健康格差〉
西村 章
医療費が高額になった場合、自己負担額を一定に抑える「高額療養費制度」。
自己免疫疾患の治療で長年この制度を利用してきたジャーナリストは、2024年冬に政府が発表した「改悪」案に不安と憤りをおぼえ、取材を開始する。
疾患当事者や研究者、政治家などの証言が浮き彫りにしたのは、健康に「格差」がある日本社会の現状や、セーフティネットとして十分に機能せず、〈世界に冠たる〉とは到底いえない医療保険制度の姿だった。複雑で入り組んだ高額療養費制度の問題を、一般書として初めて平明かつ多面的に解明する!
◆目次◆
第1章 高額療養費制度とは何か
第2章 part1 政治的・財政的背景から読み解く〈見直し〉案
第2章 part2 患者団体は〈見直し〉案凍結と変更をどう実現させたのか?――天野慎介氏に訊く
第3章 2024・2025年の〈見直し〉案をひもとく――安藤道人氏に訊く
第4章 高額療養費制度に潜む「落とし穴」を検証する――五十嵐 中氏に訊く
第5章 「魔改造」を施された日本の医療保険制度と高額療養費――高久玲音氏に訊く
第6章 part1 司法の視点から高額療養費制度を検証する――齋藤 裕氏に訊く
第6章 part2 立法の視点から高額療養費制度を検証する――中島克仁氏に訊く
第7章 「健康格差」解消のために、どのような医療保険制度を構想すればよいのか?――伊藤ゆり氏に訊く
第8章 大局的な視野から日本の医療保険制度と高額療養費制度を考える――二木 立氏との一問一答

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