来る月曜日、1月17日に第146回芥川賞・直木賞が発表される。ご存じの通り、出版界最大のお祭り騒ぎの幕開けである。
このときだけはマスメディアが、あるかないかわからない「文壇」をあることにして大騒ぎする。お祭りはいいね、楽しいから。
でもいちばん楽しいのは、自らそのお祭りの中に飛びこんでみることだ。自分でも候補作を読んで「心の受賞作」を決めてみるのである。楽しいよ、これ。
以下に芥川賞候補5作のレビューを記載する。
ぜひ、お祭り参加の参考にしてもらいたい。ちなみに予想は大森望・豊崎由美両氏の「メッタ斬り」チームにお任せして、私は楽しむことに専念させてもらいました。ではいくよ。

*1/17の芥川賞直木賞の受賞作発表をうけての感想レビューはこちら

「きなりの雲」石田千(「群像」10月号掲載)
小説の主舞台は築47年という古いアパートだ。主人公のさみ子は、時代の流れに取り残されたようなその建物で暮らしている。恋人のじろうくんにふられて半年も引きこもりの生活を続けたさみ子は、身体に変調を来たしたのを機にゆっくりと社会復帰を始める。
ちゃんとしたものを食べて体力を養い、歩いて外出する。知人の主宰する手芸教室にも講師として復帰した。そこの教え子たちに元の通り迎えられ、ゆるやかに時計の針が動き出したころに、さみ子はじろうくんからの電話を受ける。
植物と、食事と、毛糸。「きなりの雲」のストーリーを飾るのはその3つの話題だ。周囲の世界とは違う時を刻むアパートでの、しかも身体の衰弱から回復して次第に生の勢いを取り戻していくさみ子の生活は、光合成によって自身を太くしていく植物のそれを思わせる。
食事の果たす役割は言わずもがな。そして毛糸は、時の流れの象徴だ。元の会社では先輩だった玲子さんから受け取った毛糸は、専門家のさみ子でも使いこなすのが難しいものだった。いや、糸に言うことをきかせようとしてはいけないのだ。
――糸にまかせてそのままで、じゅうぶん。頭にくりかえし、いいきかせながら、黙って手を動かす。
流れる音も、きこえなくなっていく。
絡まった糸をほどいて編み直すように人生が立て直されていく模様が描かれる。作品を構成する8つの章は、そのまま8つの独立した掌編としても読むことができるだろう。極論してしまえばさみ子の周囲を人々が通り過ぎていくだけの小説で、一人の主観が綴られているのみなのだが、なにしろさみ子は植物なのだから仕方がない。あれもこれもすべて光合成されてしまいさみ子だけが最後に残る。

「道化師の蝶」円城塔(「群像」7月号)
東京-シアトル間を航行中の飛行機の中で、キオスクで買った『腕が三本ある人への打ち明け話』という本をめくっている人が「旅の間にしか読めない本があるとよい」と考える。
その隣席には肥満した男が座っている。毛だらけの指の間に手品のように現れた小さな捕虫網、それは旅の間に浮かぶ様々な着想が人の体を離れ、そこらじゅうに浮遊しているのを捕まえるためのものなのだという。「旅の間にしか読めない本」の着想もこうして捕まえられ、世界を構成している大きな網の結節点の1つにゆわいつけられることになる。
「道化師の蝶」はこうした美しく、まだ誰も読んだことがないような場面から始まる小説だ。5つの章から成り立っているが、各章を結びつけているのは「お話の構成要素の連なり」であるプロットではなく、読者を1つの論理の下につくよう説得しようとする「物語」でもない。章と章のつながり方に「法則」があることは確かだが、A-B間を結びつける法則がB-Cに応用できるようには見えない。
AからBへと続けられてきた集積物がBとCをつなぎとめるやり方を決めるとでも言わんばかりだ。中途で法則自体が自動生成されているかのようにさえ見える。たとえば『腕が三本ある人への打ち明け話』という奇妙な書物の題名についても、章を追うごとに異なった意味が発見されていくのだ。あらかじめ回収する意図で埋設された要素を小説の伏線と呼ぶのだとしたら、これは断じて伏線ではないでしょう。
このように先行きの見えない流れの中でするすると翻弄されながら遊ぶことのできる小説だ。読書好き、本好きを自認する人間であれば、ところどころで心の琴線に触れる文章を見つけることができるはずである。痕跡を残し移動を続ける作家・友幸友幸のエピソードなどは忘れえない印象を胸に残すだろう。『飛行機の中で読むに限る』に始まる『読むに限る』シリーズの法螺話は素直におかしい。あっはっは。そして始まりと同様に実に魅力的な情景を伴って小説は終わる。章ごとのつながりすらも可変的で固定できない小説なのだとすれば、なるほどこうして終わることになるだろう。あまりに素敵すぎ、可愛すぎ、もどかしすぎて、読者はまた最初のページに戻る。

「共喰い」田中慎哉(「すばる」10月号掲載)
川辺と呼ばれる地区に住む、へどろのような淀みにとらえられた家族の小説だ。
17歳の誕生日を迎えた篠垣遠馬は、父の円とその愛人である琴子さんと3人で暮している。実母である仁子さんは、遠馬を産んだ後に家を出てやはり川辺にある魚屋を買い取り、一人暮らしをしている。仁子さんは、遠馬の後に妊娠した円の子供を堕胎した。円の血筋を残すことを嫌ったからだ。遠馬を連れて家を出なかったのも同じ理由である。
「あんたはあの男の種じゃけえね」
「あの男の子どもはあんた一人で十分じゃけえ、病院で引っ掻きだしてもろうたんよ」
――そんな言葉で、遠馬は母親からも決定的に義絶されている。父・円は、女を殴る男なのだ。殴りつけ、そして性交する。
強烈なサスペンスを感じさせる小説だ。遠馬が、自身の中に円と同じ暴力への衝動を嗅ぎつけてしまうからである。遠馬は、自分が幼馴染の恋人・会田千種に対していつか暴力をふるってしまうであろうことを知っている。父親を深く憎悪すると同時に、その分身である自分に対しても絶望しているのだ。
円が好んで喰ううなぎのぬめりと人の肌を濡らす汗、針によって口先を引き裂かれたうなぎと愛人を犯す父親の性器といった具合に作者は相似形を積み上げ、最後にはそれを豪雨のために氾濫する川の流れへと投げこんでみせる。どうしようもない現実に囚われて生きるしかない人間の苛立ちと、それが決壊するまでの秒読みを見せる小説で、いささか図式的ではあるが、生理的な嫌悪感を催させる描写の積み重ねで読ませる。犯罪小説としての本篇に興味を感じる読者は多いだろう。すべてが終わってしまった後の、無感動な幕の下ろし方に私は興味を感じた。最後に登場人物が発する台詞は「なあんもない」である。

「まちなか」広小路尚祈(「文学界」8月号)
「まちなか」とは、新幹線「こだま」の停まる地方駅の存在する自治体の、もっとも賑やかな一帯のことである。作者はそこに「食品店、衣料品店、書店、スーパー、銀行、ライブハウス、バー、クラブ、スナック、ヤキトリ屋、ヤキソバ屋、ヤキニク屋、ヤキメシ屋、ヤキモノ屋」とありとあらゆるものが揃っていると書く(「買物ブギ」か)。主人公の「おれ」が13年間務めているという不動産屋も、だ。
「おれ」は線路を挟んで「まちなか」と向かい合う位置に自社で扱っていた物件であるマンションを購入し、妻と娘とともに暮している。小さな幸せというやつを手に入れた男だ。だが読者は、彼が不満を抱いて生活をしていると冒頭から知ることになる。彼は苛立っている。たとえば駅の西口側のことを地元の人間が「にしえき」と呼ぶことに。ややこしいことに「にしえき」の近くには別の私鉄の駅があり、JRの駅と紛らわしいのである。待ち合わせをして間違えたらどうする、と「おれ」は憤る。「まちなか」に住む者たちの欺瞞を糾弾する。
このように何もない滑らかな面にささくれを無理矢理見出して罵るような言葉の芸で小説に引きこまれていく。「おれ」は勤め先の社長から愛人に手切れ金を渡す役目を負わされ、そのために人生がちょっとばかりよじれて家族に嘘を吐かなければならない羽目に陥る。だが、自分には悪口を言うぐらいのことしかできず、結局は「まちなか」を成り立たせているせせこましい倫理観の中に回帰していくだろうということを「おれ」は初めから承知しているのだ。そうした行き場のなさを描いた小説である。
紹介したような楽しい言葉遊びで話は始まるのに、主人公が「おれは歩(将棋の)」と言い出すようなつまらない比喩の中に回収されていくのがこの小説の残念なところだ。え、最初から着地点が見えているような「まちなか」を書きたかった? それは失礼しました。いや、逸脱してもいいと思うんだが。

「七月のばか」吉井磨弥(「文学界」11月号)
インタビュー小説というジャンルがあるとすれば、これは面接小説とでも言うべきか。主人公の了介は、家業であるファッションヘルスにやってくる、就職志望の女性の面接をして金を稼いでいるのだ。志望動機を聞いて、さりげなく身なりを観察し、薬物など厄介なもののお世話になっていないかを判断した上で服を脱ぐように言う。最後のチェックは、女性の性器を見ることである。性病に罹っていないかどうかを調べるのだ。そこから異臭がすれば、他に問題がなくても雇わないのが吉。じゃあ、人並み以上に毛深い場合は? 先達として了介に仕事のやり方を教えた母の悦子は、その場合の判断の仕方を伝えることができずに病死した。遺体安置室で母親の死体を前に了介は考える。
――そこで、ちょうど線香が尽きたところで、新しいのを焚き、煙が右に行ったら採用、左へ行ったら不採用、まっすぐ上へ上ったらある程度剃毛、と決めて、「毛深い子はどうしたらいいかな」と訊きながら了介は手を合わせた。煙は上へ流れた。……
女性の性器を見るのが仕事の男が主人公、という点でまずおかしい(「ある程度剃毛」で私は笑った)。空虚な人生を送る男を描く小説なのである。風俗産業に務めているから空っぽだと言っているのではなく、了介はパチスロをするか公園のベンチに寝そべっているか、それ以外に時間のつぶし方を知らないような人間なのである。モッズカットの髪型の毛先が肩についたことで3ヶ月が経ったことを知る。その無為な生活ぶりが、ディテール豊かに描かれている。鼻毛を抜く以外にすることがない人の生活をガラス越しに観察しているような雰囲気もあり、その無意味さにまた笑えてくる。好きな小説だった。
そんなわけで私の心の文学賞は「道化師の蝶」に奉げます。この美しい小説が選考委員のみなさまにどう扱われるか気になる人は、メッタ斬りペアの予想が放送されるから聴きましょう。(直木賞編に続く)
(杉江松恋)

1月15日(日)のラジカントロプス2.0は文学賞メッタ斬り!大森望(書評家・SF翻訳家)、豊崎由美(書評家)が第146回芥川賞、直木賞を予想!