アニメーションの常識を覆す、超絶な映像体験!

スタジオジブリが2013年11月23日に公開した高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』。日本最古の物語といわれる『竹取物語』を原作に、かぐや姫の心情や、その暮らしぶりを想像して補完した作品です。

上映前に公開された、予告編でのかぐや姫の全力疾走シーンでは「お姫様の代名詞でもあるかぐや姫が疾走って!?」と、大きな話題を振りまきました。『ホーホケキョ となりの山田くん』で見せた筆で書いたような描線や淡い色調、背景と渾然一体になった映像は、誰も真似できない凄まじいほどの完成度を誇っており、クリエイターからは圧倒的な支持を集めています。

その一方、あらすじとしては、皆の知る『竹取物語』にかなり忠実。『アルプスの少女 ハイジ』や『火垂るの墓』などでみせた高畑流のストーリーテリングを期待した人はその忠実にみえるお話に肩すかしを食ったという意見もあるようです。

しかし、この『かぐや姫の物語』は、映像だけが素晴らしい作品ではありません。むしろ、まったく新しい『竹取物語』を語るために、あのような超絶に手間暇をかけた映像が必要だったというふうにも思えるのです。


この作品では、空や道などは空白のまま残され、絵画のように余白の多い画面作りが行なわれています。そこに、毛筆のような筆致で描かれたキャラクターが動くことで、独特の画面が繰り広げられます。通常、背景を描き込んでから途切れのない線を引き線で囲まれた部分に色をつけていくという手法をとるアニメーションの常識からはかけ離れたこの方法は、描き込みが凄い! とかアクションが凄い! のようなぱっと見で分かりやすいお得感を超えた感慨を観る人に与えるだけでなく、「空白」を使った大きな試みもなされています。
それは、日本画的な遠近法のない画面と、きっちりパースがとられ立体的な構成をとる西洋的・実写映画的な画面が混在していることです。画面に空白をもうけることで、伝統的な画面構成の手法と現代的な手法が同居することが可能になり、場面によっては日本画としても鑑賞できるが西洋的にも破綻がないという“だまし絵”のような状態になっています。あの絵巻物が実際に動いているかのような画面は、単純に手間暇かけて先祖帰りしたという以上の、新しい表現の可能性を開いた日本アニメの金字塔といっていい達成があります。


伝統と現代のどちらかを選ぶのではなく、両方を一気にすくいとってしまうのは映像美だけではありません。原作に忠実と言われるストーリーこそ、その精神がもっとも現れているとも言えると思います。

・疾走するかぐや姫の“罪と罰”とは?

ここで、『かぐや姫の物語』のキャッチコピー「姫の犯した罪と罰」という言葉を思い返してみましょう。ここで書かれる罪と罰は、原作『竹取物語』では、姫は犯した罪を償うために地上に降ろされたと書かれていることからとられていると言われています。高畑勲監督も、そのかぐや姫の罪についての回答も込めたと発言しています。その回答は『かぐや姫の物語』内で、「虫や鳥や動物たちのように生きること」に憧れたせいだと語られています。
これは生命の営みそのもののことであり、現代の感覚では罪に問われるようなことではありません。ふさわしい言葉を探すなら、それは「原罪」とでもいうべきものでしょう。
ここで思い出されるのは、小説家ドフトエフスキーの生きる原罪について深い洞察をもった作品『罪と罰』です。貧しい元大学生ラスコーリニコフが娼婦ソーニャの自己犠牲精神にあふれた生き方に心を打たれるこの小説は、普遍的な本質よりも人間の存在・実存を中心に置く実存主義的な側面をもち、現在の人間像のベースに大きな影響を与えました。

『かぐや姫の物語』のかぐや姫も、絶対であるはずの育ての父親・竹取の翁の願いを一貫して否定し、『竹取物語』の成立した時代からは想像しにくいほど、現代に近い心情や意志をもった人間として描かれています。現代的な自立した意志をもつ高畑版かぐや姫と、心情についてはほとんど記述されず、五人の求婚者を断る理由が「じつは月世界の住人だから」だった日本最古の物語『竹取物語』。
画面作りでも表現されていた、現代・西洋的なものと伝統的なものとの共存がストーリーでも生まれているのです。

このような現代的な意識を持った人間が過去を舞台に活躍するストーリーは、それだけをとってみるとじつは枚挙にいとまがありません。司馬遼太郎の一連の小説をはじめ、主人公がタイムスリップして戦国時代などで大活躍するようなアニメなど、多種多様な物語が生み出されています。これらは、借景小説ともいわれ、舞台装置は過去のものを使っているが内実は現代小説だったりするのです。

『かぐや姫の物語』はこれらとも一線を画します。作中に登場するかぐや姫の初恋の相手・捨丸との出会いも、幻想的な一瞬の愛の交歓シーンはあくまではかない夢でしかなく、捨丸はすでに子持ちになってしまっています。
もちろん捨丸はかぐや姫の月への帰還を身を挺して守ることもしません。人間の意志を行動に移す現代的なストーリーは最後まで裏切られ続けるのです。『竹取物語』の古典的な物語は、現代的なかぐや姫にとって裏切られ、かぐや姫の精神も裏切られる。この、お互いに皮相な関係にたつ二つの立場は対立する概念ではなく、ともに空しく悲しいものとして描かれてしまうのです。ここでは、新旧をとわず思想や意志を持つこと自体が罪として扱われています。

クライマックスであるかぐや姫の月への帰還は、尊重するべきもののはずの「生きることへの意志」すべてを否定する、衝撃的なものになっています。
月の住人たちは、生きる人間の最大の不条理である「死」さえも超越した存在として雲の上に立ちかぐや姫を迎えます。仏の似姿として描かれる彼らは、生命の生きる営みの連鎖=輪廻を超えた存在です。

必死に育ての親にすがり、泣きながら帰りたくないと懇願するかぐや姫も、月の住人の手によって天の羽衣をかけられた瞬間表情を無くし、抵抗自体を忘れて月へと帰ってしまいます。そこで見せる一粒の涙は、育ての親と離れるつらさや、故郷を去るさみしさを超えた強烈な印象を残します。このなんとも言いようのない諦めと余韻を残す表情を切り取るエンディングは、精緻に作り込まれた映像でなければ到達できなかったのだと思わずにはいられません。

生きることそのもの、生命の息吹そのものを超越した諦念に支配された『かぐや姫の物語』。日本最古の物語から、「生きること」を問い直す作品に作り上げた高畑勲監督。“ジブリのヒロイン史上、最高の絶世の美女”かぐや姫は、本当に人の世から絶したところへと還っていったのです。

『かぐや姫の物語』は、『竹取物語』なんてもうストーリーを知っているよと思っている人にこそ鑑賞して欲しい絶世の作品です。

(久保内信行)