昭和のプロ野球秘話

松永浩美が語る石嶺和彦とのエピソード 前編
 
 1978年のドラフト会議で阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)から2位指名を受けて入団。ブーマー・ウェルズ氏や松永浩美氏らとともに、長らく阪急、オリックスの中心打者として活躍し、通算269本塁打、875打点をマークした石嶺和彦氏。

 卓越したバッティングセンスと勝負強さで確かな存在感を示した石嶺氏は、いったいどんな人物なのか。同期に入団し、苦楽をともにした松永氏だからこそ知る、数々のエピソードを聞いた。

【プロ野球】松永浩美がバッティングを絶賛する阪急戦士 ケガと...の画像はこちら >>

【入団当時の秘話】

――松永さんと石嶺さんは、1978年のドラフトで指名を受けた同期入団です。

松永浩美(以下:松永) 最初に話しておきますが、(プロ入り当初はキャッチャーだった)石嶺に半月板のケガと肝炎がなければ、同じポジションの藤田浩雅と中嶋聡が日の目を見ることはなかったと思います。彼は高校時代から有名で、「豊見城高校(沖縄)の石嶺はすごいぞ」と、私がいた北九州までその名が轟いていたんです。

――最初にプレーを見た時の印象はいかがでしたか?

松永 私が1960年、石嶺は1961年生まれですが、彼は早生まれなので学年が同じなんです。石嶺がすごいというウワサはよく聞いていたので、「どんな選手なんだろう」と思っていましたが、プレーを見て「やはり、モノが違うな」と感じました。性格は、どちらかといえば大人しい感じでしたね。

――同期入団だと一緒にいる時間も多かったと思いますが、印象に残っていることは?

松永 新入団選手の発表記者会見の時、選手たちの保護者も含めて全員が同じ部屋で待機していたんです。そこで自己紹介が始まり、豊見城高の栽弘義監督が「うちの石嶺は日本語があまりうまくないので、みなさんよろしくお願いします」と言ったんですよ。

 そこにいた方々はピンときていなかったようですが、1972年に沖縄がアメリカから日本に返還されましたよね。石嶺は小学6年生まで、アメリカ統治下の沖縄で育ったんです。そういった時代背景があって、監督はそう話したんだなと思いました。

 ただ、意外にも新入団選手のなかで標準語に一番近かったのが石嶺でした(笑)。私は福岡県出身、ほかの選手も地方から来ていて、語尾に何かしらアクセントがありましたが、石嶺は比較的まともに標準語を話していました。

――その類のエピソードは多そうですね。

松永 会見後、全員で阪急電鉄に乗って西宮の寮に移動している時、同路線の「十三(じゅうそう)」という駅の読み方が話題になったんです。自分は知っていたのですが、何人かは「"じゅうさん"だよね?」と言ったりしていて。そこで私が「"じゅうそう"って読むんだよ」と教えたら、石嶺が「"じゅうそう"って読むんだぁ」とボソッとつぶやいた。それを聞いて、みんなで「なんだ、日本語しゃべれるじゃん」と突っ込んだ記憶があります。

【松永氏がうなる天性のバッティング】

――先ほど半月板のケガの話がありましたが、豊見城高時代から状態はよくなかったそうですね。石嶺さんは社会人野球に進みつつ、ケガを治療する意向があったようですが、阪急は石嶺さんを欲しがっていた?

松永 私や石嶺が入団したのは、阪急が3年連続で日本一を達成した1977年の翌年でしたが、内野をはじめ、投手陣などチーム全体が高齢化していました。そこで、将来有望なキャッチャーが欲しいということで、石嶺(ドラフト2位)に白羽の矢が立ったんでしょうね。ピッチャーでは関口朋幸(同1位)、外野手では山森雅文(同4位)、内野手では私(ドラフト外)といった感じで。

――松永さんと石嶺さんは、同年(1981年)に一軍デビューしています。

松永 それまで石嶺は、ファームで4番を任されていて、最初から打っていました。

高卒ルーキーはまだ体ができていないこともあり、打球が飛ばなかったり、詰まらされたりするものなのですが、「なんで普通に打てるの?」って思いましたよ(笑)。

 一番すごいと思ったのは、打球角度がすでにホームランバッターのそれだったことです。無意識にバットを振るだけで、いい角度でボールが上がる。ボールにバックスピンをかけるのがうまいんです(バックスピンがかかると打球の滞空時間が長くなる)。打球は、簡単には上に上がらないものなんですよ。天性のものがありましたし、あれはマネできません。 

 あと、コマみたいにくるっと体を回転させながら打って、そのあとにバットを投げるのですが、それを見た時に「かっこいいな。やっぱりホームランバッターは違うな」と思いましたね。バッティングだけではなく、キャッチャーとしての能力も優れていました。繰り返しになりますが、ケガや病気さえなければ日本を代表するキャッチャー、球史に残るキャッチャーになっていたはずですし、それだけの器でした。

――石嶺さんといえば、インコースを打つのがうまかった印象があります。

松永 うまかったですね。

スッとバッターボックスに立って、構え方が自然。無駄な動きがほとんどなく、タイミングの取り方が独特でした。あれも天性のものですね。

 それと、我々の時代はデータに頼るばかりではなく、"感性"を重視していました。バッティングフォームなど、首脳陣が本人の感性を尊重してくれたこともあって才能が埋もれなかった、という言い方もできるかもしれません。

――松永さんがそこまでバッティングを絶賛するのは珍しいですね。

松永 そういう選手があまりいませんからね。石嶺は別格ですよ。私が同学年でライバルだと思っていたのは石嶺だけですし、「彼には負けられない」という気持ちが常にありました。

 のちに聞いた話だと、石嶺も私に対してライバル心があったみたいです。かといって、仲が悪かったわけではありませんし、「なんで打つんだよ」なんて思ったこともないです(笑)。

【キャンプ不参加でもバカスカ打った】

――キャッチャーとしては、どんなところがすごかったのでしょうか?
 
松永 座ったままボールを投げたりしていましたし、地肩が強かったです。

キャッチングもうまかった。足もそれほど遅くなかったですし、キャッチャーとしては珍しいタイプでしたね。当時のパ・リーグは、主なキャッチャーに伊東勤(西武)、田村藤夫(日本ハム)、香川伸行(南海)らがいましたが、石嶺の膝が悪くなければ、間違いなく日本を代表するレベルだったと思います。

 あと、彼とはキャンプの時に同部屋だったのですが、いつもノートを持ってどこかに行くんです。「どこに行ってるの?」と聞いたら、「(上田利治)監督に呼ばれているんだ」と。やっぱりキャッチャーって大変なんだと思いましたね。バッターの特徴や心理状態、ピッチャーの持ち球など、覚えることが多いですから。毎日1時間くらいかけて勉強会をしていたと思います。

――先ほど、半月板のケガや病気さえなければ日本を代表するキャッチャーになっていたと言われていました。それでも、通算269本塁打、875打点を記録するなどバッターとして実力を示しました。

松永 肝炎を患った翌年(1987年)は、春季キャンプもオープン戦もほとんど参加できなかったにもかかわらず、シーズンでバカスカ打っていましたからね。4月は打率4割以上(.441)、ホームランもけっこう打っていて(6本塁打)、「キャンプって何?」って思わされましたから。

やはり、持っているものが違っていたんでしょう。

(中編につづく)

【プロフィール】

松永浩美(まつなが・ひろみ)

1960年9月27日生まれ、福岡県出身。高校2年時に中退し、1978年に練習生として阪急に入団。1981年に1軍初出場を果たすと、俊足のスイッチヒッターとして活躍した。その後、FA制度の導入を提案し、阪神時代の1993年に自ら日本球界初のFA移籍第1号となってダイエーに移籍。1997年に退団するまで、現役生活で盗塁王1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回などさまざまなタイトルを手にした。メジャーリーグへの挑戦を経て1998年に現役引退。引退後は、小中学生を中心とした野球塾を設立し、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスでもコーチを務めた。

浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

編集部おすすめ