名将たちの甲子園初出場物語
西谷浩一(前編)

 西谷浩一は関西大学を卒業した1993年春、社会科教諭として大阪桐蔭に赴任し、同時に野球部のコーチとなった。出身高校は兵庫の報徳学園。

その西谷を大阪桐蔭へとつないだのは、当時監督だった長澤和雄との縁だった。

【高校野球】「俺は甲子園に行かれへん男や...」大阪桐蔭・西...の画像はこちら >>

【きっかけは「SSKのおっちゃん」との再会】

 今春、関西大が54年ぶりの大学日本一に輝き話題になったが、前回日本一となった1972年、剛腕・山口高志を擁するチームで4番を務めていたのが長澤だった。西谷にとっては大学の大先輩にあたる。

 しかし、それ以上に西谷にとって長澤は、報徳学園時代にスポーツメーカーの担当者としてグラウンドに出入りしていた「SSKのおっちゃん」だった。

 転機が訪れたのは、西谷が大学3年だった1991年春。関西学生野球連盟の独立10周年を祝うパーティーでふたりは再会する。かつての「SSKのおっちゃん」は高校野球の世界に身を転じ、直前の選抜大会に初出場し、ベスト8まで勝ち上がった大阪桐蔭の監督になっていた。

「すごいですね。びっくりしました」
「元気にやってるか?」

 再会を喜んだふたり。その直後、春のリーグ戦で関西大は19年ぶりの優勝を果たし、大学選手権でも準優勝する。そして秋のリーグ戦後に開かれた祝勝会で、西谷は再び長澤と顔を合わせた。今度の長澤は、春夏連続出場を果たした甲子園で大阪桐蔭を日本一へ導いた「全国制覇監督」になっていた。その後、西谷のもとへ長澤から連絡が入る。

「卒業したら、ウチでコーチをやってみんか」

 西谷が当時を振り返る。

「ただ、僕のなかではまだ野球がしたくて。まったく大した選手じゃなかったんですけど、30歳くらいまで社会人で現役を続けて、それから教員になって高校野球ができたら......という思いを持っていたんです。だから当初は、やんわりお断りさせてもらったんです」

 ところが、4年生になっても社会人野球から声はかからないまま、時間だけが過ぎていった。そこへ、当時関西大のコーチだった豊島光男(のちに関大一校長などを歴任)と長澤が高校時代の同級生だった縁もあり、再び誘いを受ける。西谷もついに決断し、道は大阪桐蔭へとつながった。

【西谷の前に立ちはだかった巨大な壁】

 1993年春、晴れて大阪桐蔭のコーチとなった西谷が足を踏み入れた大阪の高校野球界は、「まだまだPL、PLの時代でした」と振り返る。なによりPLの巨大な壁を感じたのが、選手集めだった。

「『コイツや!』と思った選手を見つけて、チームに何度も足を運んで誠意を見せたら来てくれると思っていたんです。でも、『見つけた!』と思ってチームの人にあいさつに行くと、ことごとく『PLに決まっています』と。もちろんPL以外にも上宮、近大附、県外の学校......と競争相手は多かった。いい選手を見つけさえすれば、あとは鍛えればいいと思っていたのが、そこまでいかない。まず、そこに気づかされたんです」

 厳しい現実を突きつけられたコーチ生活のスタートだった。

コーチ就任1年目の1993年夏は、阪南大高に敗れて初戦敗退(2回戦)。94年はPL学園、95年は上宮に、ともに4回戦で敗れた。96年は準決勝まで勝ち上がったものの、再びPLに屈した。

「甘くはない。勝てなかったですね」

 宿敵PLに夏の大阪大会で初めて勝ったのは、1997年の準々決勝だった。大乱打戦の末、最後はサヨナラ本塁打。劇的な決着だった。すると試合後、新聞記者が西谷のもとへやってきた。

「中村(順司)監督が呼んでいます」

 それまで中村とはほとんど言葉を交わしたことがない。呼ばれる理由に心当たりもなかった。「勝って、はしゃぎすぎたから怒られるんかな......」と、そんなことを考えながら急いで向かうと、中村は柔らかな表情で思いもよらない言葉をかけた。

「こういう試合を勝った次が、うまくいかんことが多いんや。

今日は寮に帰って、選手全員を集めて引き締めなアカンぞ。それは監督の仕事じゃなく、コーチの仕事や。しっかり君がやって、頑張って甲子園に行けよ」

 西谷は衝撃を受けた。

「負けた直後に、そんな言葉をかけてもらって。なんて器の大きい人なんだと感動しました。それと同時に、『絶対あと2つ勝って甲子園に行く!』と思ったんですけど......」

 しかし翌日の準決勝、下馬評では優位と見られていた履正社に1対2で競り負けた。この夏、履正社は初の甲子園出場を果たす。

 さらに翌1998年。記念大会で大阪が南北に分かれ、代表校が2校となった。PLともブロックが分かれ、西谷たちは北大阪で選抜準優勝の関大一をターゲットに定めた。ところが、その関大一と対戦する直前の3回戦で、金光第一(現・金光大阪)に敗れた。

 6年間のコーチ時代、大阪桐蔭は一度も甲子園に届かなかった。

そして1998年秋、西谷は29歳で監督に就任することになる。

中村剛也、岩田稔を擁しても届かなかった聖地】

 それは校長からの突然の通達だった。西谷を大阪桐蔭へ誘った長澤について、校長からは「いったん相談役のような形でチームの外から野球を見てもらう」と説明された。同時に、西谷が結果を残しても1年後には長澤を監督に戻すという話だった。年上のコーチ、有友茂史(現・部長)もいるなかで複雑な思いはあったが、長澤本人に相談したうえで就任を受諾した。

 しかし監督として初めて挑んだ1999年夏は、履正社に初戦敗退(2回戦)。秋が近づくと、西谷は「いつ交代になるのか」と校長のもとへ確認に向かった。すると、思わぬ答えが返ってきた。

「今、野球部がいい感じになっているように見える。あと2年やってくれ」

 夏の結果とは別に、教員である西谷が監督になったことで、選手たちの学校生活にも落ち着きが出てきた。学校側は、そんな変化も感じとっていたようだった。監督続投は2年間。ただし、この時も「甲子園に行ったとしても、あと2年で長澤を戻す」と念を押され、西谷は「もちろんです」と即答した。

 2000年秋、エースの岩田稔、4番の中村剛也が2年生、西岡剛が1年生ながら遊撃を守ったチームはPLを破り、大阪大会準優勝。近畿大会でもベスト8へ進んだ。近畿地区の選抜出場枠は6校。戦いぶりから見ても、通常なら選抜出場の可能性は十分にあった。ところが、この年は大阪のほかの2校、関西創価と浪速がそろって近畿大会ベスト4入り。大阪から3校目となる大阪桐蔭は選ばれなかった。またしても、甲子園が逃げていった。

 そして、約束の上では西谷にとって監督最後の夏となる2001年。「ナニワのカブレラ」の異名をとった中村を軸とする打線は凄まじい破壊力で大阪を勝ち上がり、ついに決勝へ進出する。

 上宮太子との決勝では初回に5点を奪われながら、土壇場で追いついた。しかし、エース岩田はその年の初めにI型糖尿病を発症。野手までマウンドへ送るなど、総動員でしのいできたが、延長11回、5対6と最後に力尽きた。

「これまでで一番練習したと思えるチームで、人間的にもいいヤツがそろっていた。でも、勝てない。これでもアカンのか、甲子園には届かんのか......と」

【なんでこんなに甲子園に嫌われるんや】

 西岡が主将となった秋も大阪大会で敗退。ここで長澤が監督に復帰し、西谷はコーチへ戻った。すると翌年夏、戦力的には決して高い評価を受けていなかったチームが、あれよ、あれよと勝ち上がり11年ぶりの甲子園出場を果たした。西谷にとっては、強烈な光景だった。

「あのチームは、僕が監督をやっていたら絶対に勝たせてやれなかった。僕ならチームの力が足りないと思う分、『よそが3時間なら5時間やろう』と、ひたすら練習させていたはずです。でも長澤さんは、選手たちを普段は放牧させているように見せて、締めるところでは締める。手綱をうまくさばいて、気がつけば選手たちがその気になっていた。あそこで11年間遠ざかっていた甲子園への重い扉が開いたんです」

 喜びはもちろんあったが、同時に自らの力不足を嫌というほど思い知らされた。ここから長澤監督の時代がしばらく続くかと思われた。しかし甲子園で初戦敗退すると、学校との話し合いのなかで長澤の退任が決まる。西谷が再び監督に戻ることになった。

「長澤さんが辞めるなら、僕も......」

 そう伝えた西谷に、長澤は「それは違う」と諭した。そして2002年秋、西谷は2度目の監督生活をスタートさせる。

 監督復帰後初めて迎えた2003年夏は、PLに敗れて5回戦敗退。しかし、1年生の平田良介が4番に座った秋は近畿大会を制覇し、神宮大会でも準優勝。翌春の選抜出場は確実だった。

 あとは発表を待つだけ──。ところが1月半ば、過去の部員をめぐる案件が問題視され、その責任を取る形で、西谷は選抜出場校の発表を前に監督を辞任する。選抜はコーチだった田中公隆(現・聖隷クリストファー監督)が指揮を執り、2回戦で敗退した。ようやくたどり着いたと思った甲子園に、またしても立つことができなかった。

「落ち込みました。俺って、そんなに悪いことしてるか......。なんでこんなに甲子園に嫌われるんや、って......」

 負の流れは、まだ終わらなかった。気持ちも新たに挑んだ2004年夏。2年生の平田を軸とした攻撃陣に投手陣もそろい、3年ぶりに決勝へ進出する。相手は宿敵PL。十分に勝算はあった。延長15回を戦い、4対4。大阪大会決勝として史上初の引き分け再試合となった。翌日の再試合では、PLの先発だった1年生・前田健太から7点を奪った。それでも勝てなかった。3年前に続いて決勝で敗れ、またも甲子園を逃した。

「縁がない、運がないというか、周りの人から『西谷はよう頑張ってるけど、持ってないな』と思われてるんやろうな、というのをすごく感じました。自分でも、『俺ってやっぱりそういう運命、そういう人生なんや』と。あの頃はずっとそんなことを思っていましたね」

【失意の西谷をさらにへこませた宮本慎也のひと言】

 しかも、この決勝再試合には、西谷の傷口に塩を塗るような"後日談"までついてくる。

「再試合で負けた次の日、日体大のセレクションに、今コーチをしている橋本(翔太郎)を連れて前泊で行くことになっていたんです。僕は用事があって橋本を先に行かせて、最終近くの列車に乗った。そうしたら、車内の電光掲示板のニュースに『甲子園最後の一枠PL 激闘で大阪桐蔭を下す』って出て、それが繰り返しずっと流れてるんです。それを見て、『また俺は何をしてるんや......』と」

 話は、まだ終わらない。

「東京行きの新幹線が名古屋に着いたところで、古田(敦也)さんと宮本(慎也)が乗ってきたんです。おそらくナイターが終わって、泊まらず東京へ帰るところだったんでしょう。向こうはグリーン車でしょうから、飛び乗って通路を歩いていたところで宮本が僕に気づいて、『おっ、ありがとう』って。年齢は僕がひとつ上ですけど、浪人しているので、大学では同志社の宮本と関大の僕は同学年で戦っていたんです。

 たぶん『PLを甲子園に行かせてくれてありがとう』という感じだったんでしょうけど、こっちは『なにがありがとうや......』という気分ですよ。それより『俺は甲子園に行かれへん男や......』と、新幹線の中で、そこからまたへこんでました」

 今の大阪桐蔭を知る者からすれば、信じられないような言葉である。だが、試練はまだ続いた。辻内崇伸、平田良介が投打の軸となり、大きな期待を集めた2004年秋。大阪大会4回戦で上宮太子に、まさかのコールド負けを喫する。

「辻内が普通に打たれて、こっちは打てず。完敗でした」

 まさに、ことごとく──。あと一歩まで行けば、逃げていく。手を伸ばせば、遠ざかっていく。「甲子園に嫌われている」と、西谷自身がそう思わずにはいられないほど、何度も何度も聖地への道を閉ざされてきたそんな西谷に、最後の一歩を越えさせたのは、16歳の怪物だった。

谷上史朗●文 text by Shiro Tanigami

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