世界で緊張が高まる中、改めて注目される皇室の「慰霊の旅」。上皇ご夫妻はいかなる思いで、戦地での祈りを続けられてきたのでしょうか。


その背景には、戦後世代である上皇陛下が抱き続けてきた「父・昭和天皇がやり残した責任を、自分が引き受ける」という孤独な決意がありました。

本記事では西川恵氏の著書『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮社)より一部抜粋・編集し、90度近く腰を曲げて祈り続けるお二人の姿が、いかにして世界の不信を「信頼」へと変えたのか。その知られざる舞台裏をひも解きます。

■硫黄島から始まった慰霊の旅
上皇・上皇后両陛下の被災地や戦場での慰霊が、「慰霊の旅」と呼ばれるようになったのは1994年2月、小笠原諸島の硫黄島訪問からだった。それまでも両陛下は被災地や戦場となった地に足を運び、追悼を行ってきた。硫黄島の前年には沖縄も訪れている。

しかし硫黄島はそれまでの場所と違って、立ち入りが制限され、だれでも行けるところではない。行くには自衛隊機しかない。

日本軍2万人が玉砕し、米軍約7000人が戦死したこの島は、梯久美子著『散るぞ悲しき─硫黄島総指揮官・栗林忠道─』や、映画『硫黄島からの手紙』で一躍有名になったが、両陛下が訪れたのは、注目される10年以上前である。

この訪問のころから、メディアは「両陛下はそうした地への行脚を自らの使命としている」と見て、追悼と慰霊を目的とする旅行を「慰霊の旅」と形容するようになった。

■戦後を背負った天皇の決意
「慰霊の旅」は先の天皇の個人的な思いに発する部分が多くを占めている。

父・昭和天皇が戦争を止められず、多くの国民に多大な犠牲を強いたことの責任を、代わって息子の自分が犠牲者を追悼し、苦難の中を生きてきた人々を励ますことで果たし、併せて過去の反省を表そうとしてきた。


戦争が終わったとき先の天皇は11歳で本来、責任はない。しかし父は、戦争が自分の名において始められたこともあって、反省を口にしたり、慰霊を行ったりすることが難しかった。

そうした父のやり残したことや責任を、自分が引き受けていこうとの決意である。

当然のことながら慰霊の旅はメディアや識者の注目を集め、必然的に「祈る行為の可視化」を伴った。

即位した当時は50代半ばだった両陛下も、歳を重ねるごとに体の動きが緩慢になっていった。それでも衆目の中、腰を90度近く曲げてじっと祈る。慰霊碑の前で、海の向こうに向かって、断崖の深いふちの脇で……。

真摯に、深々と頭を垂れるお二人の姿は、見る者に何がしかの感慨を起こさずにはおかなかった。そこに政治的、外交的な計算や匂いはなく、宗教的、哲学的なものさえ感じさせた。

■慰霊の対象は「すべての犠牲者」
「慰霊の旅」は基本的には日本の犠牲者を弔うものだった。しかし日本本土はともかく、米軍との激しい戦闘が繰り広げられた地では、犠牲者には米兵もおり、また現地の住民や外国の民間人もいた。こうした場所では両陛下は全犠牲者を慰霊の対象にした。


例えば、米自治領のサイパンでは、上陸作戦を行った米側に3500人近くの戦死者を出し、日本の植民地下にあった朝鮮からの移住者なども犠牲になっている。

サイパンの住民も同様だった。両陛下のサイパン行きが明らかになると、米国の元軍人や遺族から反対や懸念の声が上がった。韓国でも反対が起きた。

このとき日本政府が米国に強調したのは「慰霊は日本人だけでなく、すべての犠牲者が対象である」ということだった。この言葉は米国側を安堵させた。

■平和国家のイメージを発信
軍国主義・日本の復活への疑念が消えないのには幾つか理由があった。

まず、戦争の記憶がまだ完全に歴史とはなっておらず、日本の占領を体験した人が多く生存していた。また、日本の急速な経済発展と東南アジア進出が、大戦中の日本を思い起こさせた。そしてもう一つは、昭和天皇の存在だ。

昭和天皇が戦争を止められなかったことに忸怩(じくじ)たる思いを抱き続けたことは、日本ではよく知られている。

しかし外国では、昭和天皇が象徴という存在になったとはいえ、引き続き元首の地位(外国ではそう位置付ける)にとどまっていることは、日本が戦前との連続性を保持し続けているという心証を与えていた。


昭和天皇が亡くなったとき、「葬儀に出席すべきでない」との反対が幾つかの国で起きたのは、「昭和天皇は戦争の最高責任者」との認識が広く浸透していたからだ。

その意味では、外国にとって先の天皇は白紙ともいえる存在だった。

■慰霊の旅がもたらしたもの
その天皇が即位後、皇后とともに、過去の反省を込めて慰霊の旅を始め、ときに日本人戦没者だけでなく、全犠牲者に追悼を捧げてきたことは、平和国家・日本のイメージを補強してきた。

歴史問題をかかえた中国や韓国、北朝鮮は別にして、平成になり東南アジアの国々で日本の軍国主義復活の懸念が表立って議論されたことを私は寡聞にして知らない。

安全保障問題では日本は中国の力の威圧に対応する形で、集団的自衛権を一部容認する安全保障法制を成立させた。

安倍政権の安全保障政策強化の行き方に対して、両陛下の慰霊の旅やお言葉はバランサーとなり、東南アジアの国々にある種の安心感を醸成してきたと思われる。

また慰霊の旅を含めた両陛下の自然体の振る舞いも日本の良きイメージ定着に寄与したと思う。日本はバブルの終焉と平成の時代の始まりが重なり、虚栄を張らず、分相応に生き、モノよりもコトに充足を見出す社会へと移行した。

両陛下のたたずまいはこの日本のありようと共鳴してきた。外国から見ると、平和国家・日本のイメージは昭和の時代よりも平成になってより明確になったと言えるだろう。

■残された「慰霊の課題」とは
ただ、一つ付け加えておかねばならないのは、慰霊の非対称性の問題を日本人がまだ解決していないことである。

両陛下は外国訪問をすると、その国の戦没者を慰霊するが、外国の元首が来日した時、相互主義になっているはずの慰霊が行われない。
A級戦犯が合祀されている靖国神社に外国の首脳は行かないからだ。

もし慰霊のための施設が日本に整っており、その前で外国の首脳が献花し、深々と頭を下げるなら、遺族のわだかまりは軽くなり、戦後世代の日本人も感じるところがあるはずだ。その機会を日本人はもてていない。

外国の首脳が慰霊できるようにするには、いまのところ3通りの選択肢がある。

靖国神社のA級戦犯の合祀取り下げ、または国立施設の建設、または暫定的に千鳥ケ淵戦没者墓苑を代替施設とする——である。

いずれを選ぶにせよ、慰霊の非対称性を日本人は自分たちで解決しなければならない。天皇だけに慰霊の問題を任せておいていいはずはない。
この書籍の執筆者:西川 恵 プロフィール
1947(昭和22)年長崎県生まれ。71年毎日新聞社入社。テヘラン、パリ、ローマの各支局、外信部長、専門編集委員を経て、2014年から客員編集委員。仏国家功労勲章シュヴァリエ受章。『エリゼ宮の食卓』(新潮社)でサントリー学芸賞。
『ワインと外交』(同)、『知られざる皇室外交』(KADOKAWA)など著書多数。
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