◆初対面で、らもさんが言ったのは、 「あけて」「ええよ」だけだった。
中島らもさんの思い出 最近ボケてきたので、残しておきたい一身...の画像はこちら >>
 

 作家の中島らもさんに初めて会ったのは、2003年の秋。

2004年の6月に刊行する「異人伝~中島らものやり口」(現在は同タイトルで講談社文庫)の刊行依頼だった。
 らもさんは、その年の7月26日に階段から転落して亡くなっているから、生前最後のメッセージと言える語り下ろしのエッセーになってしまった。

 最近、らもさんのことを思い出すことが多い。このとき、らもさんは52歳。そう言えば、私も来年、52歳になる……。

 私が初めて会った年の2月。

らもさんは、大麻取締法違反などの容疑で逮捕され、その後に躁病治療のため70日間入院している。
 5月に懲役10か月、執行猶予3年の判決を受けているのだが、この間も「大麻解放論」などをぶち上げ、マスコミで話題になっていた。
 それから数カ月後に執筆依頼し、打ち合わせをすることになるのだが、このタイミングでなければ、らもさんと会うこともなかったのではないかと今では思っている。
 その時、らもさんは、「らもmeet THE ROCKER」と題した音楽ライヴを控えている時期で、精神状態は明らかに躁だったのではないかと思う。
 指定されたのは、天王寺の音楽スタジオだった。初めて会う、らもさんの印象は、とにかくスローモーな人(笑)だった。

 挨拶をすると、らもさんは、無言で目の前のジュースの自販機にお金を入れ始めた。多分、普通の人であれば30秒くらいの動きなのだが、2分くらいかけてジュースを片手に戻ってくる。
 決して老人のようにヨボヨボしているのではないから、その動作がよけいにスローモーに感じる。そして、缶コーヒーのプルトップを見つめて、しばらくするとひと言、漏らした。
「あけて」
 私の思い出の中では、それが、らもさんの第一声であった気がしてならない。
 その後、マネージャーさんと今後の打ち合わせをしたが、らもさんと内容について詰めた記憶がない。
ただ帰り際に不安になって、依頼を受けてもらえるのかどうかを確認した。
 らもさんは、言った──「ええよ」。
 帰りの新幹線のなか、本の刊行をOKしてもらえたのに、こんなに不安になったのも初めての経験だった。

 
◆ホテルでのインタビューに、「気をつかわんで、ええよ」

 第一回目のインタビュー収録。場所は大阪城公園のホテルニューオータニを用意させてもらったが、このときのらもさんの第一声。
「わざわざホテルとか、気をつかわんで、ええよ」だった。


 優しい人だなと思った。
 インタビュアーは、らもさん指名の小堀純さん。らもさんとは付き合いも長く、息の合ったインタビューでの応答が続く……はずであったが、やはりらもさんのテンポは独特だった。
 小堀さんが話を聞き出そうとして、ちょっとしたギャグを入れるのだが、らもさんは押し黙っている。会話、会話の間に、だいたい1分程度の沈黙を挟む。インタビュー時の1分の沈黙は相当に長い。

 そして、うつむいた姿勢から、わき上がるような笑みを浮かべて「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」と笑い出す。
 小堀さんのギャグに笑っているのだ。1分前のギャグに笑っているのである。
 このパターンで3時間近くインタビューを録ったが、このときの収録分は、多分ページ数にすると10ページ前後ではないかと思える。
 正直、これまでの著作で読んだことのある話が多かった。小堀さんは、私以上に何度も聞いたことのある話であったと思うが、根気強く確認作業をしてくれているのがわかった。

 

 ◆小説を書くのは、田植えの作業と同じ

 らもさんは、その時の自分に対して、「52歳は、失っていく年。けれど逆に一種のすがすがしさがある」と位置づけた。
 らもさんにしてみれば、これまでのことを一度、きちんと振り返っておき、新しい何かを始める準備をしようという思いがあったのではないだろうか。
 のちに出てくる「異人伝」というタイトルも、らもさんが付けたものだ。
 
 ここまで、らもさんの独特のテンポについて書いたが、それに対して、アルコールやクスリ、病気が原因だと憶測されそうだが、それは違う。
 これも、のちにわかることだが、らもさんは天才なのだと心底思う。頭の回転が異常に速いことは、誰もが認めることではないだろうか。
 だからインタビューに対しても、頭の中で3回転くらいさせてから答えていたのだと思う。そして途中からは、本の構成を終わりまで完成させて、ゆっくりとその構成に合わせて喋っていたのではないか。
 

 ◆次の日、ノックしても、らもさんが出ない。  嫌な予感しかしなかった。

 その日は、ライターの小堀さんとも、これまでの思い出話に花が咲き、楽しい時間を過ごせた。ただ、さすがに2時間を過ぎると、インタビューの進行もペースダウンし始めた。
 すると、らもさんはコートのポケットからバーボンのボトルを出して飲み始める。
 これは、今日はもう終わり、という合図らしかった。
 インタビューに使ったスイートルームで、らもさんに泊ってもらった。
 私は、別件の打ち合わせをしに、らもさんを残して飲みに出かけた。
 このとき、どういう事情で、らもさんを残して飲みに出かけたのか覚えていないのだが、明日の朝10時に部屋に迎えに行くと約束をした。
 「朝食をとりながら、打ち合わせをしましょう」と言うと、らもさんは、いつもどおり「ふっ、ふっ、ふっ」と笑った。
 

 さて、事件はその朝に起きた。と言っても私ひとりがパニックになっただけなのだが──。

 10時にらもさんの部屋をノックしたのだが、らもさんが出ない。外にはルームサービスを頼んだのであろう、シャンパンのボトルと食事の皿が置かれている。
 嫌な予感がした。
 こういう時、誰もが同じようなことを心配するのかどうかはわからない。とにかく私はパニックになりかけていた。
 フロントに行って内線電話を鳴らしてもらう。やはり出ない。30分待って、内線を鳴らす。……出ない。
 もともとがこちらで予約した部屋であるので、鍵を開けてもらうのは難しいことではなかった。ただし、多分、私の顔は真っ青であったはずだ。
 

 勇気を出して部屋に入ったが、ベッドにバスローブが脱ぎ捨ててあるだけで、らもさんはいなかった。私はホッとした。最悪の事態は免れたと思った。
 

 ちょっと落ち着いて、マネージャーに連絡を取ろうと思いロビー近くのカフェに入った。すると……いるのだ。らもさんが……いる。
 なぜだか涙が出そうになり、「らもさん!」と呼んだ。
 らもさんは、こちらを見たが無表情である。近くまで行くと、灰皿に吸い殻の山ができている。
 「らもさん、どうしたんですか?」
 ビックリして私が聞くと、らもさんは淡々と言った。
 「8時からおるんよ」
 「えっ?」
 「待ち合わせ、8時違うの?」
 「……」
 

 朝の8時に打ち合わせなど普通はしない。
 ただ、この時も、私が東京に戻るのを気にして、8時というのもあり得ると勘違いしてくれていたのだろうと思う。
 ただ、できれば部屋のキーはフロントに戻していてほしかった。そうすれば、すべては解決していたと思う。

 実はこのあと、1時過ぎまでいたから、3時間ほど話し込んだ。このときの会話が、私にとってのらもさんとの唯一の会話である気がする。

 ◆中島らもさんは、優しい天才であったとつくづく思う

 らもさんは、どういうわけか朝の8時待ち合わせと勘違いして、私を待っていたから、5時間以上その場所にいたことになる。
 今思えば、らもさんは、かなりしんどかったと思う。

 その時の会話は、いつも通り、けっしてテンポの速い会話ではなかったが、いつものらもさんよりは饒舌だった。
 執筆中だった小説「酒気帯び車椅子」の話を聞いた。小説の何がきついかと言えば、田植えに似ているからだと言う。すべての構想は、すぐにできあがるのだが、それをマス目に植えていく作業がきついと。
 天才の感覚だと私は思った。短い間であったが、私はらもさんを天才だと何度も感じた。
 そして、少し前に断った、単発のエッセイの仕事について悔いていた。酒とつまみについての原稿依頼であったと言う。なぜ断ったのか思い出せない。ただ絶対に受けるべき仕事だったように思えてならないと……。
 もともとがそうした単発のエッセイが、自分の原点だったのに……というような話だった。

 そんな話を1時間ほどしたあと、らもさんは言った。
 「階段から落ちて、わからないうちに死ぬのがいい」
 この言葉は、間違いなく聞いた。そして、のちに本当に階段から落ちて亡くなったからであろうが、その時のらもさんとの会話の情景を何度も思い出す。

 なんでそんな話になったのか? 多分、その時の私は、らもさんの弱い部分を引き出そうとしていたのだと思う。
 「そうは言っても、らもさん、本当は弱い人間なんじゃないですか? だからアルコールやらクスリに逃げるんですよね? 日ごろの言動は、虚勢を張っているだけなんじゃありませんか?」
 そんな方向の話を引き出せれば、これまでにないエッセイになるし、本気で私はそう思っていたような気がする。

 だが、そうした話は一切聞けなかった。らもさんに、52歳という年齢は、そろそろ死を意識することはないかとも聞いた。
 らもさんは、意識することはないとはっきり即答した。それに死ぬこともまったく怖くないとも言った。
 「自分は35歳で死ぬと思っていたから、いつ死んでもいい。できれば、酔ったまま階段から落ちて死ぬのが一番いい」と言ったのだ。

 「異人伝」が刊行されて約一カ月後にらもさんは亡くなった。本を見つけた新聞社から私に取材が来た。自殺ではないかと記者は、引き出そうしていた。

 それは違うと思うと言った。

 その時は話さなかったが、階段から落ちて死ぬのがいいと言ってはいたが、らもさんは、死にたいとは思っていなかったはずだ。
 らもさんが、弱みを一切見せなかったのは、自分の読者の視線を常に感じていたからだ。
 俺の読者は、そんな弱っちい中島らもなんて期待してね~んだよ、と。

 
 「そろそろ、ええ?」

 そう言って帰って行った、らもさん。私もそろそろ、あの時のらもさんと同じ歳になろうとしている。

 <終>