もてはやされる三王朝交替説

もてはやされる三王朝交替説
写真・図表:BEST T!MES
       
常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。崇神天皇、応神天皇、継体天皇の三つの政権が登場したという説

 大阪の古代史といえば「河内王朝論」が有名だ。河内に巨大前方後円墳が造営された時代、新王朝が河内に登場したというのだ。河内の歴史と地理を知るために、この推理について、説明しておく必要がある。

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▲誉田御廟山古墳(応神天皇陵。大阪府羽曳野市) 写真:関裕二

 さて、江上波夫は、朝鮮半島西南部に進出した騎馬民族は、百済を建国し、4世紀初めに北部九州にやってきたと推理した。北部九州に国を造ったのは崇神天皇で、その後応神(おうじん)天皇が河内に移り、新たな王朝をうち立てたと考えた。これに対し考古学者の佐原眞は、考古学が進展した結果、たしかに日本列島に騎馬民族的な文化が移入されたことは確かにしても、4世紀初めの北部九州に、騎馬民族による征服があった痕跡(こんせき)はなにもないし、五世紀のヤマトの突発的な古墳文化の変化も証明できないと反論した(『騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会)。

 こうして、騎馬民族日本征服説は下火になったのだ。
 しかしその一方で、征服者が日本を蹂躙したという発想は、戦後史学界に強く影響を及ぼした。たとえば水野祐の三王朝交替説が華華しく登場し(『日本古代王朝史論序説』早稲田大学出版部)、多くの史学者に支持され、三王朝交替説を軸に、古代史が語られてきたのである。
 三王朝交替説は、三つの血縁関係にない王家が、次々に君臨したという。なぜ三つの王家の歴史が残らなかったかというと、8世紀の朝廷が「万世一系」による社会秩序の基本的な姿を求めたために(二度と王朝交替をしてはいけないということだろう)、『日本書紀』の中で、「王家は入れ替わることはなかった」と記録したというのである。


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