伊賀の郷士だった城戸弥左衛門(きど・やざえもん)は、敵を欺くための「謀術」と火薬や火縄銃を扱う「火術」を極めていたとされ、江戸時代に著された『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』に“伊賀流の忍術名人”の11人のうちの1人として記されるなど、伊賀屈指の忍者でした。
音羽(おとわ:三重県伊賀市)を拠点とする音羽半六に仕え、通称を「音羽の城戸」と呼ばれていたといいます。経歴は不詳なところが多いのですが、音羽氏の“城”館の門“戸”の側に居住して、城館を守ったことから「城戸」と名乗ったと言われています。
弥左衛門が住む伊賀は他国と異なり、中央政権から派遣される守護などの支配を受けず、さながら豪族たちの自治によって成立している独立国の様相を呈していました。
しかし、これを是としない人物が現れました。織田信長です。
1568年(永禄11年)に上洛を果たして足利義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立した信長は、天下統一を成し遂げるために伊賀のような支配体制を許しませんでした。
1579年(天正7年)の「第一次天正伊賀の乱」は、そういった政治状況の中で勃発しました。この戦は結果的に、弥左衛門たち伊賀忍者の圧勝となりました。
伊賀をいずれ平定しようと考えていた信長ですが、この時、信長自身は出陣していません。実は当時から愚将として知られていた織田信雄(信長の次男)が信長に全く相談なく、勝手に出陣してしまったのです。そして、信雄軍は伊賀忍者たちの神出鬼没のゲリラ戦法に散々に苦しめられ、信雄の重臣や兵士たちが多数討ち死にするなど、甚大な被害を被ってしまいました。
この惨敗を受けて信長は大激怒し、「親子の縁を切る」という旨の書状を信雄に送りつけています。第一次の合戦における弥左衛門の活躍は伝わっていませんが、その技量から鑑みるに、勝利に大いに貢献したことでしょう。