戦争は企業を肥大化させる

 8月15日は終戦記念日であった。戦後74年目の同記念日を迎えた今年も、さまざまなメディアで多くの回顧記事・論考記事が掲載された。

 あの戦争――日中戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦――は、戦後の日本経済、企業にも大きな影響を与えている。戦争に勝つためには、兵器の製造、絶え間ない増産が不可欠である。軍艦、戦車、飛行機……。それらを造るには、さらに製鉄、金属、化学……の素材産業振興が必須だ。

 面倒なので、ここでは素材産業から兵器産業までをひっくるめて重化学工業と呼ぼう。戦前の日本の重化学工業は、財閥がリードしていた(というか、重化学工業の担い手が財閥になっていったというべきか)。かれらも私企業なので、採算度外視で事業を推進するはずがない。ところが、軍部はそんなことを言ってられない。とにかく、造って造って造りまくれ!――の矢の催促である。そこで、重化学工業がどんどん肥大化していった。

「上場神話」はここから?

 戦前日本の重化学企業の多くは財閥に属していた。そして、意外に思われるかもしれないが、戦前、財閥系企業のほとんどは非上場だった。

たとえば、三菱重工業の利益は、当然ながら配当として株主に還元される。株式を公開するより、配当を独り占めできるほうがいい。そしてそれは、三菱財閥(および岩崎家)が、三菱重工業の事業規模をまかなうことができるほどの大金持ちだったからにほかならない。

 ところが戦時になると、三菱重工業は三菱財閥がコントロールできる、その規模をはるかに超える増産を求められる。こうなると、上場して広く出資者を募るしかない。実は、三菱重工業(1918年に三菱造船として設立)が上場したのは1934年で、日中戦争(1937年に開戦)や太平洋戦争(1941年に開戦)より前なのだが、理論的にはそういうロジックだ。

 日中戦争が開戦すると、財閥系企業の上場が増えてくる。三菱財閥の場合、1937年に三菱電機、1938年に三菱商事、1940年に日本化成工業(現・三菱ケミカル)を上場。財閥本社たる株式会社三菱本社も、1940年に株式を一部公開した。

 ただし、「大企業=上場会社」という図式が完成するのは、戦後の財閥解体によってである。戦後日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、財閥解体で財閥系企業の株式を財閥本社や財閥家族から買い取り、従業員、工場周辺の地域住民に売却し、最終的には一般大衆へと売却した。つまり、上場したわけである。

 ここで、やっと「大企業=上場会社」という図式が明確になり、起業すれば「目標は上場」という合い言葉で奮起する……というのが一般的になってくるのである。少なくとも戦前の起業家で、会社の上場を目標に掲げた人物を筆者は寡聞にして知らない。

借金漬けの毎日

 戦争が激しさを増してくると、上場して出資者を募り、増資しても資金が足りないという事態に陥る。そうなると、国を挙げて軍需関連企業の資金調達をサポートする仕組みができあがる(とにかく当時の歴史を調べていると「国策の上から」という単語が頻発する)。

 通常、企業は必要な資金を計算して内部蓄積や余剰資金をかき集め、それでも足りないと株式を発行して資金を調達する。ところが軍部からの矢の催促で、そんな悠長なことはいってられない。そこで、まず軍需関連のなかでも重要な企業を「軍需会社」に指定し、その会社に銀行を割り当てて、「とにかく銀行からカネを借りて増産しろ! カネの心配は銀行に考えさせろ!」という「軍需融資指定金融機関」制度が確立した。こうしてカネの心配を忘れた重化学工業会社は、野放図にデカくなっていった。たとえば、三菱重工業の資産は、1937年から1945年のわずか8年の間に3億円から52億円、おおよそ17倍にも膨れあがったという。

 一方、資金を供給する金融機関の方も、国策の上から合併による体力増強が求められた。

・三井銀行+第一銀行=帝国銀行(戦後に三井・第一に再分離、現・三井住友銀行、みずほ銀行
・三菱銀行+第百銀行=三菱銀行(現・三菱UFJ銀行
・安田銀行+日本昼夜銀行=安田銀行(戦後に富士銀行と名称変更し、現・みずほ銀行)

 こうして巨大銀行が次々と合併し、のちに戦後の高度経済成長期を牽引する六大都市銀行体制が整えられた。また、それら巨大銀行と巨大企業との間には、軍需融資指定金融機関を母体とした「融資系列」が形成され、増資をせずに資産規模を巨大化させる仕組みができあがったのだ。

“東急+小田急+京急+京王”の巨大鉄道会社

 国策の上から合併・増強を求められたのは、金融機関だけではない。輸送力増強のため「陸上交通事業調整法」が制定され、交通量の調整(=鉄道各社に対する合併)を推奨した。当時はまだ東京急行電鉄や西武鉄道をつくった創業者が存命で、かれらは「渡りに船」とばかりに大型合併を展開した(“船”じゃなくて鉄道なんですがね)。

 東京急行電鉄をつくった五島慶太(ごとう・けいた)は、鉄道官僚出身で経営手腕に優れ、首都近郊の私鉄から経営を頼まれたり、買収、買収また買収で事業規模を拡大していった(強盗のように買収していくので、「強盗慶太」と呼ばれた)。

 1942年、五島は東京横浜電鉄(東京急行電鉄の原型)に小田急電鉄、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄。略称・京急電鉄)を吸収合併して、東京急行電鉄を設立。さらに1944年に京王電気軌道(現・京王電鉄)を買収して吸収合併した。ここに、現在の東急、小田急、京急、京王電鉄を合併させた一大鉄道会社が完成したのである。

 一方、西武鉄道の創業者・堤康次郎(つつみ・やすじろう)は、1928年に多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)を設立して、1939年に武蔵野鉄道(現・西武池袋線、秩父線)を買収・合併し、さらに1945年に旧・西武鉄道(現・西武新宿線、国分寺線など)を買収・合併して西武鉄道を設立した。主要路線は合併で得たところが、東京急行電鉄とは違うところだ。

 ちなみに五島は、1942年に東条英機内閣の運輸通信大臣に任命されている(今でいうなら、東京急行電鉄の社長が国土交通大臣に就任するようなものだ)。それがなければ、西武鉄道はもっと便利になっていただろう。

なぜかというと、西武鉄道の西武新宿駅はJR東日本の新宿駅と結構離れているが、「延ばそうと思えば簡単にできた」にもかかわらず、あえて離して建設したらしい。

 堤は五島とライバル関係にあり、五島の事業拡大欲を恐れていた(=忌み嫌っていた)。五島が大臣になって国鉄(現・JR東日本)に影響力を持つので、西武鉄道を国鉄に乗り入れてしまうと、しまいには東急に乗っ取られてしまうと危惧したようなのだ。西武鉄道が新宿駅でJRに乗り入れていたら、もっと便利になっていたと思うのは筆者だけではあるまい(筆者は西武新宿駅を使う機会はほとんどないが)。

元は小田急だった井の頭線を京王に譲渡

 だが、五島と堤(東急と西武)ではそもそも鉄道に関するスタンスが違う。

 五島は鉄道官僚出身で、鉄道をメインに考え、付随する事業は鉄道から分かれていくという発想だが、堤は逆である。堤の本業はデベロッパー(都市開発)で、その付随施設に鉄道があるという考えだ。だから、堤が最初につくった鉄道会社は、郊外開発のための鉄道・多摩湖鉄道であり、競争相手を買収した結果、西武鉄道ができたという流れである。JRと乗り入れをせず少々不便でも、別に構わんというに違いない。

 さて、東急、小田急、京急、京王電鉄を合併させた一大鉄道会社・東京急行電鉄は、戦後の1948年に再分離してしまった。五島は戦時中に戦争協力をしたという理由で、戦後しばらくの間、東京急行電鉄の経営から遠ざかった。代わりに就任した社長ではとてもじゃないがあんなデカい会社を経営することができず、五島に相談にばかり来る始末。

そんな巨体のままでいては、将来、五島が自身の子どもに社長を譲る時、障害になりかねないと考えたようだ。

 その再分離の時、京王井の頭線はもともとは小田急の路線だったのだが、五島は分離後の京王電鉄の経営が立ちゆかなくなると危惧し、井の頭線を京王に譲渡した。代わりに東京急行電鉄所管の箱根登山鉄道と神奈川中央交通を小田急側に譲渡すると、小田急を説得したのだ。

 この一例を見ただけでも、五島が優れた経営者だったことがわかる。こんな配慮があれば、JR北海道JR四国が現在経営不振にあえぐこともなかったのではなかろうか。

(文=菊地浩之)

●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『徳川家臣団の謎』(角川選書、2016年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)など多数。

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