俳優の伊藤健太郎容疑者が29日、道交法違反(ひき逃げ)の疑いで警視庁に逮捕された。28日夜、東京都渋谷区の路上で乗用車を運転中、バイクと衝突し、乗っていた男女にケガをさせ、そのまま立ち去ったのだ。

 伊藤容疑者は「バイクと衝突し、相手のバイクの運転手と同乗していた女性にケガをさせたことに間違いありません。ぶつかった後に現場から離れてしまったことについては間違いありません」と容疑を認めているという。

 なぜ事故現場から立ち去ったのか? おそらくパニックになり、交通事故を起こしたことによって自分の身にふりかかるであろう面倒なことや不快な刺激を回避するために、現場を離れたのだろう。

 伊藤容疑者は29日放送の『アウトデラックス』(フジテレビ系)に出演予定だった。そのうえ、翌30日には出演映画『とんかつDJ アゲ太郎』の公開を控えており、11月6日にも主演映画『十二単衣を着た悪魔』が公開予定だった。そういう事情を考えると、警察の事情聴取を受けたり、事故をマスコミで報じられたりする不快なことを避けたかったという気持ちはわからなくもない。

事故現場を離れたのは「快感原則」のせい

 そもそも、人間はできるだけ不快を避け、快を求めようとする動物である。このような傾向をフロイトは「快感原則」と名づけたが、われわれを根底で支配しているのは「快感原則」にほかならない。

「快感原則」というと、ひたすら快を求め続けるような印象を与えるかもしれない。もちろん、そういう人もいるが、むしろ不快を避けようとする人のほうが圧倒的に多い。嫌いな人には会いたくない、面白くないことはしたくない、面倒くさいことには関わりたくない……。

 ただ、社会の中で「快感原則」に従って行動するのは、きわめて危険である。

嫌いな教師や上司に会いたくないからといって、学校や会社に行かなければどうなるか。勉強や仕事が面白くないからといって、やらなければどういうことになるか。面倒くさいからといって、事故やトラブルの処理をしなければどういう事態を招くか。

 伊藤容疑者も、交通事故を起こした際に被害者を助けるとか、警察に通報するとか、救急車を呼ぶとかいうことをせず、立ち去ったからこそ、ひき逃げの容疑で逮捕される事態を招いたのだ。

 そういう事態を避けるには、しばらくの間は不快かもしれないが、それに耐えながら事故現場で必要とされていることをするべきだった。そうすることによって、回り道になるかもしれないが、できるだけ不快を少なくすることができるわけで、このような行動原則をフロイトは「現実原則」と呼んだ。

「快感原則」によって破滅へ?

 われわれは、常に「快感原則」と「現実原則」を天秤にかけながら生きている。もちろん、幼児の頃は徹頭徹尾「快感原則」に支配されている。だが、成長するにつれて「快感原則」で行動すると痛い目に遭うことを学習する。だから、しばらくの不快に耐えながら、最終的に快を獲得することを目指すようになるわけで、受験勉強はその最たるものだろう。

 こうして徐々に「現実原則」が「快感原則」に取って代わるのだが、なかには大人になっても相変わらず「快感原則」に支配されている人がいる。たとえば、性欲を即座に満たすために行動に移したり、嫌なことに直面したらすぐ逃げ出したりする人である。

いずれの場合も、警察沙汰になりかねないし、そこまでいかなくても社会的制裁を受ける可能性が高い。

 このように快を求め不快を避けようとするあまり「快感原則」に支配されていると、そのツケが回ってくることが多い。伊藤容疑者も、事故を起こした瞬間「快感原則」に従って行動したせいで、大きな代償を支払う羽目になるだろう。

 伊藤容疑者逮捕の報道に触れ、フロイトが「性欲動(エロス)」と対立させて「死の欲動(タナトス)」の概念を導入した有名な論文「快感原則の彼岸」の最後のところでさっと吐いた言葉を思い出した。「快感原則は実際には、死の欲動に奉仕するものと思われる」という言葉なのだが、これは実に意味深である。われわれは「快感原則」によって破滅へと導かれるということだろうか。

それともより深い意味がこめられているのだろうか。

(文=片田珠美/精神科医)

参考文献

フロイト「快感原則の彼岸」中山元訳(『自我論集』ちくま学芸文庫 1996年)