飯野賢治の葬儀には沢山の人が集まっていた。久しぶりに懐かしい仲間たちとも再会することが出来たが、会釈の後、どうしても二の句が継げない。

突然の事にみんな言葉を失っていた。

いまぼくは飯野賢治とのはじめての会話を思い出そうとしている。

それは1996年頃だっただろう。
『Dの食卓』が評判になり、メディアへの露出がはじまったころだったので風貌は知っていた。
ぼくも『アクアノートの休日』が話題になって、それなりに顔や名前が知られはじめたころだった。

なんらかのイベントですれ違った時、ふーん、あいつか、と思った。幕張メッセだったと思う。
トレードマークのスーツ姿、ロン毛の巨漢。険しい表情で、ズンズンズンと歩いていた。彼もぼくに気づいたのだろう、一瞬だけ視線がばっちり合った。
その日はそれでおしまい。ぼくは一緒にゲームを作っていたメンバーに「飯野賢治を見たよ」と伝えた。

ぼくらはまだ20代だった。世の中に勝負を挑んだ作品が評価され、満足と戸惑いを感じていた。さー、これからだ!と張り切る一方で、ただのまぐれかもしれないという不安もあった。

後日、雑誌で対談することになった。それが初対面だったと思う。会話の内容は掲載誌に記録されているが、「おうおう、オマエか最近調子づいてるのは」「そっちこそはしゃぎ過ぎじゃないの」と水面下ではつばぜりあいが繰り広げれていたと思う。こうしたことは埼玉出身者(飯野)と千葉出身者(飯田)にはよくあるパターンだ。

それからしょっちゅう飯野賢治と会うようになった。イベント出演や雑誌対談、ラジオやテレビの収録などが多かったが、特別な用がないときもよく会っていた。ギターを弾いて遊んだりもしていた。
飯野賢治はマスコミにバンバン出まくるようになり、時代の寵児ともてはやされ、充分な制作資金を確保し、理想的なオフィスを作り、各界の実力者たちと一緒に仕事を展開していった。ぼくも飯野賢治ほどではないが活動の幅を拡げていった。
満足や戸惑いは一旦棚に上げて、とにかくヤル。イケルとこまでイク。あえてムリなほうをノゾム。ぼくらだけじゃない。その頃の「ゲームクリエイター」はそうやってビデオゲームの表現領域を拡張していくことに夢中だった。

そうした衝動の原点が飯野賢治の早過ぎる自伝『ゲーム』(講談社)に記されている。殺風景な郊外。父親とのふたり暮らし。高校は退学してしまった。将来の展望なんて持ちようがない。どうしようもなく荒んでいく心を和らげたのがビデオゲームだった。ゲームセンターはまだ不良の溜まり場でいささか物騒な場所だったが、ワンコインでキラキラした別世界にワープすることが出来た。
飯野賢治は『ゼビウス』の1000万点プレイヤーだったという。ビデオゲームをうまくプレイし続けている時に感じるワールドイズマインな感覚は、他の娯楽では味合うことが出来ない特殊なものだ。それを自分の手で作ることが出来たら最高だ! 飯野賢治をはじめとする同時代のゲームクリエイターたちは人生を「ゲーム」に賭けた。未踏峰の登山のようなものだった。確実なルートはないが頂は見えていて、それぞれがそれぞれのやり方で攻めた。

ぼくは飯野賢治が特別な人間だと思ったことがない。ただ自分を生かしてくれたものへの畏怖心は突出していた。だから一生懸命「ゲーム」に対する感謝をカタチにしていた。それは大真面目にふざけ遊ぶという独特な誠意。ひとつの企てが終わるとゲラゲラと豪快に笑う。そのたびに体が大きくなっていく。ぼくがよく知っていたwarp時代の飯野賢治はそんな男だ。


ぼくは祭壇に設営されている棺のサイズに違和感を感じていた。ここにあの飯野賢治が収まるわけがない。窮屈だったら気の毒だ。 最後のお別れで棺の中の飯野賢治を見た。ちょうどよかった。やはり飯野賢治はぼくらと同じサイズの人間で、ただ、誰よりもがんばってがんばってがんばってがんばって自分の「ゲーム」をプレイした。そしてがんばってがんばってがんばって、ある時代を代表するプレイヤーになった。
そんな飯野賢治がたまらなく愛しい。
さようなら。

飯田和敏/ゲーム作家/友人)
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