連続テレビ小説「半分、青い。」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)
第14週「羽ばたきたい!」第81回 7月4日(水)放送より。 
脚本:北川悦吏子 演出:田中健二

81話はこんな話


「いつか君に会える」を書き上げた鈴愛(永野芽郁)は漫画家を辞めることにした。
「私は 私の人生を生きる」

飛べない鳥


80話の仙吉じいちゃん(中村雅俊)の「15分の光」の話は鈴愛の中で咀嚼されて「自分の人生を晴らしたい。曇り空を晴らしたい」という思いにつながったようだ。

「飛べない鳥が飛べる鳥を見上げて下を歩くのはごめんだ」
鈴愛は自ら暗闇を出ていくことにした。
確かに、誰しも穴蔵に隠れてたった15分だけの光を待ち望むような人生であってはならないと思う。

翼のあるプテラノドンと「バイバイ」して(プテラノドンが鈴愛の心情とうまくつながった)、秋風ハウスを出て、引っ越しの軽トラックに乗って「ユメ〜♪」と「ユー・メイ・ドリーム」を歌う。途中海に寄ってはしゃぐ鈴愛とボクテ(志尊淳)とユーコ(清野菜名)。
ここぞとばかりにロケ。光が差して気分は爽快。
「気持ちいい〜!」「空は青〜!」
ダメだったら無理して我慢しないで次に行けばいいと背中を押してもらえた気がする。とくに若い人は。

ただ、ラストカットの鈴愛の表情はぶれていて心情がよくわからない。
80話の戦争体験のときの仙吉の顔も見せていない。
そこに答えを出さない田中健二演出は徹底して思慮深い。

なぜ漫画だったのか


秋風のもとに来た時、“秋風羽織を超えると思っていた”“悪くても、秋風羽織と同等”“自分を天才だと思っていた”と言う鈴愛。
「私は頑張っても三流の漫画家にしかなれない。
それだったら辞めたい」ときっぱり線を引く。
いろんな考え方があって、たとえ三流(この言葉もなんですが・・・)でも自分が好きなら続けるとか、お金のために続けるとかいう考えもある。鈴愛はもっと高い空を見たかったのだろう。
と、ここで改めて思い出すと鈴愛の漫画及び秋風羽織へのこだわりは律からもたらされたものだ。
律がいなくなってしまったいま頑張る意味が見いだせなくなったのかなという解釈もできる。
律の好きだった秋風を越えて彼を驚かせたい、喜ばせたい、そして結ばれたいと願っていたのに、その野望は潰えてしまった・・・。それはいったん撤退して新たな道を探ったほうがいいだろう。

「半分、青い。」は漫画を従来の“専門職もの”にしないで、漫画へのモチベーションを人と人との“想い”の表れとして描いているように感じる。
だから「あんなに好きだった漫画が苦しいだけになってしまいました」が私には「あんなに好きだった律が苦しいだけになってしまいました」に聞こえてならなかった。
鈴愛に対して律が鈴愛の「律がロボットを発明しますように」という願いを叶えてしまったことに胸をかきむしられる。

漫画には興味ない人も誰かを思う気持ちは必ずある。だから「半分、青い。」は多くの視聴者を逃さない。

漫画や書くことを生業にしている方々が、それぞれの記憶と体験を思い返していろいろ思いを馳せることも可能だ。とりわけ夢破れて去ることの記憶はそれが自分であろうと他者であろうと強く響く。

秋風劇場


「鬼の秋風羽織」と言われるくらいあんなにエキセントリックな男だったのに、すっかり穏やかになってしまった秋風先生。
辞めると言う鈴愛に「私の人生を豊かにした」「人間嫌いの私がなんとか なんとかおまえを・・・なんとかしたいと」「そんなふうに自分を見捨てないでくれないか」と言うが、鈴愛の心は決まっていた。
それがわかった秋風は「漫画家を辞めたらいいと思います」「あなたはアイデアがとてもよかった。言葉のちからも強い。しかしその構成力のなさ 物語をつくる力の弱さは努力では補えないと思います」と引導を渡す。
鈴愛はそう言われるのを待っていた。師匠に言ってもらうことで決意を強くできる。
秋風先生、80話でボクテにも頼まれてしまったし、そう言うしかない。なんだか秋風が可哀想になってくる。

引っ越しの日、秋風は菱本に「先生、眠っていて会えない」と伝えて、生原稿を秋風の“生涯たった三人の弟子”に託す。「いつもポケットにショパン」は鈴愛、「A-Girl」はユーコ、「海の天辺」はボクテ。

なんだか形見分けみたいだが、秋風はまだまだ生きるだろう。

絵で表現した豊川悦司


秋風が鈴愛に言う台詞「あなたはアイデアがとてもよかった。言葉の力も強い。しかしその構成力のなさ 物語をつくる力の弱さは努力では補えないと思います」について改めて検証してみる。このレビューで何度も書いているが、絵についての言及がまったくない。
たとえば、今春行われた「くらもちふさこ×いくえみ綾二人展」の公式ビジュアルブックのふたりの対談を読むと、絵の話がわんさか出てくる。それもじつに楽しそうに。構成者がいるので、あえてそういう話を質問していたり、楽しそうに見えるように書いていたりするのかもしれないけれど、やっぱり漫画が好きな人には、絵の話は重要なのだと思う。
「半分、青い。」81話。頑張っても三流の漫画家にしかなれない。それだったら辞めたい
「くらもちふさこ×いくえみ綾二人展」の公式ビジュアルブック  パルコエンターテインメント事業部

前述したが「半分、青い。」は漫画をテーマにしたお仕事漫画ではなく、違うところに狙いがあると思うので、絵に関する台詞がないのは仕方ないと割り切って見ていたところ、最後の最後に、秋風羽織がサングラスを外し、壁の絵に絵を足す(三羽の鳥と涙)アクションが登場した。

絵を描くのは豊川悦司のアイデアだったと番組公式で明かされていて、とても腑に落ちた。
豊川悦司は、これまでずっとくらもちふさこの描いた絵を描いているという設定で、少しだけ描いている場面もあったが、ほとんど漫画家のようなシーンがなかった。くらもちふさこのような漫画はとうてい描けないのだから仕方ないが、それだとどうしても、自分の身体と小道具としての絵との距離が気になるのではないだろうか。
俳優は身体表現の仕事なので。
そうすると、漫画家としての役を成立させるために絵を使いたいと思うのは理にかなっている。
経験を描けと弟子には言ってきたわけで、三人の弟子を旅立たせていった身として、作家としての変化をどこかで絵で表したくなったのではないだろうか。
スタジオの装置、小道具・・・あるものを使ってできる範囲で秋風羽織としての説得力を作り出すには何が最適か。過去の自分の絵(という設定のくらもちふさこの絵)に描き込むことで、“いまの秋風羽織”になる。
最後の最後で漫画家の心情を絵で表現した豊川悦司。この人の芝居は信じられると私は強く思った。
描かれた涙に、秋風の涙なのか、志半ばで去りゆく者への涙なのか、いろいろな想像を巡らすことができるのも素敵だ。
(木俣冬)
編集部おすすめ