連続テレビ小説「半分、青い。」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)
第25週「君といたい!」第150回 9月22日(土)放送より
脚本:北川悦吏子 演出:宇佐川隆史 田中健二
「半分、青い。」150話。そよ風ファンのお披露目は2011年3月11日だった
半分、青い。 メモリアルブック (ステラMOOK)

半分、青い。 メモリアルブック

150話はこんな話


鈴愛と律が精魂込めて開発した「そよ風ファン」はついにお披露目会ができるまでになる。宣伝映像は涼次(間宮祥太朗)が撮ってくれた。

ときに、2011年3月11日──。

資金調達会議


エヴァ風のテロップではじまるそよ風ファンの資金調達会議に、恵子(小西真奈美)がグリーンパン第二弾(クロワッサン)をもってきて、いろいろ冴えたアイデアをもたらす。
学校の郷愁と扇風機の郷愁が合わさるからこのシェアオフィスのカフェを会場にするといいとか、お披露目会を軽食付きにしたほうがいいなど。

シャンパンなども出して・・・と聞いて、鈴愛と律はサンバランド計画のときの喧騒を思い出し、恵子に「いま考えているようなものじゃないから」と想像を止められる。

これはドラマのこれまでを振り返るコーナー及びおもしろコーナーとしての位置づけであり、言うだけ野暮だとあらかじめ断ったうえで書くと、高校出たばかりの初心なふたりの頭の中ならともかく、カリスマ漫画家・秋風羽織のところにいた鈴愛と大手メーカーにいた律がいくらなんでもパーティーといえばサンバランドという認識で止まっていることはないと思う。ちなみにこういうのはすべて冗談なので真面目な異論は求めておりません。そのついでにもうひとつ書くと(まだ書くのか)、

恵子が同じシェアオフィスにすでにパン屋があるにもかかわらずパン商売で新規参入(緑グッズの一貫なのは理解しています)してくる遠慮のなさは、近所に何軒も同じコンビニやドラッグストアが建つ不条理に近いもの感じる。もっとも恵子は関係性とか気にしなそうなキャラだし、そこが魅力なのだろうけれど。

涼次、ついに再登場


プレゼンにはすてきな映像もあったほうがいい。安価で頼めるのは涼次しかいないと鈴愛が思いつく。
涼次はそれを引き受ける。
鈴愛と久しぶりに会う前に、三叔母と会話しながら、再会に胸奮わせる涼次の表情がいい。映画監督として
自立し成長した表情にもなっている。


こうしてできた映像は、草原に佇み涙する少女。これを見て「才能あったんだなと思ってうれしいようなちょっと悔しいような」とそっとノートパソコンを閉じる鈴愛。
「涼ちゃんには才能があって私にはなかった」と言いつつ「もつべきものは才能のあるわかれた亭主」「使えるものは私を捨てた旦那でも使う。私っぽいでしょ」と偽悪的なことを言う鈴愛に律は、涼次さんを許してあげて、カンちゃんを涼次さんに合わせてあげるきっかけを作ったのだろうと理解を示す。

鈴愛のこどもの頃、母がつけた名前をバカにされてそれを母に知らせたくないがために自分だけ悪者になったことがあった(7話)。片耳が聴こえなくなったときも律以外の人の前では泣かなかった(11話)。その頃から、鈴愛は不器用で自分のほんとの気持ちが他人に話せない、なんでも我慢して強がっていて、律だけがそれを知っていた。

「おれは鈴愛が哀しい。鈴愛はどんどん哀しい」

律の気持ちはなんとなくわかる。鈴愛が鎧を着込んでやにわに剣を振り回すように声を振り絞って叫ぶときや、なぜそっちに行くの? と疑問に感じるような素っ頓狂な行動をとるシーンを見て、あまりいい気持ちがしない視聴者も少なくないようだった(SNSの反応から)。私もいつも心がきりきり傷んだ。それがずっと「沼の王の娘」という童話の、カエルに姿を変えられてしまったお姫様に見えて、それについても何回かレビューで書いた。


このドラマではこの感情をはっきり誰にでもわかるように説明しないので、視聴者をへんな気持ちにさせる。中には素直に受け取る人もいるだろう。でももやもやしてしまう人もいる。作り手は多種多様の受け手のことを考えて、通常、それを誰にでもわかりやすく噛み砕いて書くものだが、このドラマはそうでない書き方を選択したようにみえる。

以前のレビューで書いているが、作者の過去作「オレンジデイズ」ではちゃんとわかりやすく失聴したヒロインの偽悪的な言動の理由を相手役が説明しているので、そうすることもできたはず。それでもそうしないで来たのはなぜか。
律と鈴愛だけが共有する“秘密”としてとっておきたかったのではないだろうか。

「鈴愛は哀しくない。マグマ大使の笛があるから」と泣く鈴愛は、子どもの頃の河原で泣いていた顔(屈指の名場面・11話)に似て見える。
萩尾律という人物は、人間が頑張るときの心の支え(お守りやペット、架空のヒーローや現実のアイドルやスター、思い出の品など)を顕在化した存在なのだろうなあと思う。146話で鈴愛が引き出しにディスプレイしていたものもそのひとつだろう。

だからこそ、彼が提案した漫画を描き始め、片耳が失聴した自分のアイデンティティにしたものの、彼が結婚したから漫画が描けなくなった。
幼い頃、路頭に迷った彼女の人生は律に支えられてかろうじて保っていた。
だからこそ対象はこの上もなく美しい神のような存在でなければならなかった。頭が良くて美しくて自分の本当をすべてわかってダメなとこもすべて受け入れてくれる人・律を支えにして、なかなかうまくいかない人生をなんとかかんとか乗り越えて来たヒロイン。

キスで魔法がとけるように、ようやく分かたれた心の支えと統合(精神的な)できそうになって、40歳にしてようやく成功を手に入れそうな時がやって来た。
元旦那と涼次と律もはじめて顔を合わせた。

かつて捨てられた男(しかも成功している)に、自分だって仕事もうまくいっていて、たとえ恋人ではないとはいえパートーナーもちゃんといる(しかもイケメン)ところを見せられてはじめて会えるという気持ちもわからないではない。例えば、人生がうまくいってないと同窓会に出たくない気持ちのようなものではないかと想像してみる。

それなりに胸を張って過去の出来事に向き合って、新たなスタートを切れる。そこでハッピーエンドにしていいじゃないか。何度でも書くが、もうここで終わりにして良いじゃないかええじゃないか(「西郷どん」でええじゃないか運動が起こっていたのでつい・・・)。

ところが作り手はさらに、2011年3月11日のリアルな出来事を描く。
しかも土曜日。

大きく揺れるお披露目会場。
いったい我々視聴者は月曜までどういう気持で待てばいいのか。
(木俣冬)
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