四三驚愕、成長したりくは母親のシマに生き写し
第33話で美川(勝地涼)が、熊本の片田舎のカフェの主人として旧友の四三と再会したかと思えば、第34話では、車夫の清さん(峯田和伸)が来日したIOC会長ラトゥールを案内するため、東京中を人力車に乗せて走り回った。このとき、妻の小梅(橋本愛)も久々に登場した。
りくはシマに瓜二つ。天真爛漫なところもそっくりだ。このあと四三は、ハリマヤの黒坂辛作(三宅弘城)やりくの父(シマの夫)の増野(柄本佑)とも再会する。増野はりくを連れて、大塚に再び引っ越してきたという。ハリマヤには多くの職人と、同店特製の「金栗足袋」を愛用するランナーたちが集まり、にぎやかになっていた。ベルリンオリンピックのマラソン日本代表となった朝鮮出身の孫基禎と南昇竜も、金栗足袋を履いていた。
四三は成長したりくを含めて懐かしい人々との再会を喜ぶとともに、1940年の東京オリンピックでの聖火リレーの大役を恩師の嘉納治五郎(役所広司)から任され、意欲に燃える。一方、田畑政治(阿部サダヲ)は、日本水泳陣の総監督としてベルリンに来たものの、4年前のロサンゼルスオリンピックのときとは違い、どうも気分が晴れない。
次のオリンピックは東京に来ることになったけれど……
ベルリンオリンピック開幕の前日、1936年7月31日にはIOC総会が当地で開かれ、前年に延期となっていた1940年のオリンピック開催地を決める投票が行なわれた。ここで東京はヘルシンキを下してついに開催地に選ばれる。
投票では、事前に日本支持を表明していたアメリカ代表のガーランド(ラズ・B)とブランデージ(ドン・ジョンソン)のほか、何と、満州事変以来、日本との関係が悪化していた中国代表の王正廷(ホァンシー)も投票したと判明する。それを知った嘉納から握手を求められた王は、応じるのをためらいながらも、「同じアジア人として私、東京を支持するしかなかった」「スポーツと政治関係ない」と言い切った。東京に投票したことが本国で知れれば、王はきっと非難されるだろう。そんなリスクを背負いつつ、スポーツに政治を介入させないという強い意志から王が東京を支持してくれたことを、嘉納は重く受け止めた。
他方、田畑は東京開催決定を喜んだのもつかの間、釈然としないものを胸に抱くことになる。それというのも決定直後、会場から出てきたIOC会長のラトゥール(ヤッペ・クラース)に感謝を伝えたところ、耳元で「ヒトラーに御礼を言いなさい」とささやかれたからだ。田畑はここで、朝日新聞社の元同僚の河野一郎(桐谷健太)が以前、ヒトラー(劇中では実際の記録映像が使われたほか、ダニエル・シュースターが演じていた)は日本と同盟を結ぶため、ラトゥールに圧力をかけて東京支持を要求したのではないかと話していたのを思い出す。
肝心のオリンピックも、初めて聖火リレーが実施されたり、開会式に合わせて飛行船が飛ばされたり、絢爛豪華ではあるが、ナチスのプロパガンダ色の強いものとなった。スタジアムにはハーケンクロイツの旗がはためき、選手村でも(日本選手団は特別待遇でほかの国とは別に宿舎を与えられていた)、あちこちで「ハイル・ヒトラー」の掛け声が聞かれた。若い選手たちが何かにつけてそれを口にするので、田畑はついに怒り出す。さらには、通訳を務めるユダヤ人のヤーコブ(サンディー海)までもが、ナチスの軍人が来るたび「ハイル・ヒトラー」と声をあげた。ナチスは政権をとってまもなくユダヤ人の迫害を始めていたが、オリンピック開催にあたって国際世論を刺激しないため、迫害の手をゆるめていた。ただ、それはあくまでオリンピック会期中にかぎってであり、その後、ユダヤ人たちがどのような道をたどるかと思うと、ヤーコブの行動が哀れに思えてしまう。
ハリマヤの足袋が世界一の選手を輩出
競技においても、政治の問題が浮き彫りとなる。マラソンでは、先述の孫基禎が1位、南昇竜が3位となり、表彰台に立ったものの、彼らはそこで日本の国旗が掲揚されることを知らされていなかった。このとき、ハリマヤ製作所の若い職人たちが、ラジオで表彰式の様子を聴きながらふと、「どんな気持ちだろうねえ」「二人とも朝鮮の人ですもんね」と口にする。だが、それに対し店主の辛作は、「俺はうれしいよ。日本人だろうが朝鮮人だろうがアメリカ人だろうがドイツ人だろうが、俺のつくった足袋を履いて走った選手はちゃんと応援するし、勝ったらうれしい」と率直な思いを語り、「それじゃだめかね、金栗さん?」と四三に訊ねた。四三もそれに「そっでよかです。ハリマヤの金メダルたい」と同意する。
ここへ来ても、四三と周囲の人たちは、国や民族、人種に関係なくスポーツは誰にも楽しめるものだと信じて疑わなかったことが、こうした場面からうかがえる。それに対し、ベルリンにいる田畑は、スポーツに政治が介入するさまを目の当たりにしてすっかり嫌気が刺していた。スポーツと政治の関係は「いだてん」における重要なテーマだが、今回はそれを新旧2人の主人公の対照的な反応を通して、あらためて示唆したといえる。
すっかり憂鬱になった田畑は、夜中のプールで一人たたずんでいると、水のなかから前畑秀子(上白石萌歌)が現れる。レースを控えた彼女は、眠れないのでこっそり練習していたのだ。このとき田畑は「何だか好きじゃない、このオリンピック」と心中を打ち明けると、前畑は「私は好きになる。いまは好きじゃないけど、金メダルとったら好きになると思う」と力強く宣言するのだった。きょう放送の第36話では、ついにその前畑が金メダルに向けて本番を迎える。
ところで、第35話では、1961年の秋、古今亭志ん生(ビートたけし)の弟子の五りん(神木隆之介)が、いよいよ自分の両親の足取りをたどるべく、ハリマヤ製作所を訪ねていた。五りんの祖母がシマであることはすでに判明しているが、とすれば、りくは彼の母親ということになる。では、父親は一体誰なのか? そういえば、ベルリンオリンピックのさなか、りくは小松のため初めて足袋をあつらえていたが、このとき二人の楽しそうなやりとりから察するに、もしや……。
「いだてん」第35話キーワード事典
以下、第36話に出てきた事柄や人物について、事典風に説明を補足しておきたい。
田畑政治とベルリンオリンピック……田畑は80歳のときに刊行した回顧録のなかで、ベルリンオリンピックでのナチスの影響についても記している。以下のくだりなど、政治記者であった田畑の鋭い観察眼をうかがわせる。
《ベルリンの町には花がいっぱいあったが、その花にまじって赤地に黒のハーケンクロイツの旗がずらっと並び、突撃隊や親衛隊の制服の兵士がかっ歩して、私は、彼らのそぶりに政治的圧力を感じた。金と人とをふんだんに動員して、立派にさえやればよいという感じで、このようなナチの政治臭は致命的欠点といわれてもやむを得まい。気のせいか、重苦しく、とげとげしており、私個人としては少しも気持ちのよい大会ではなかった。オリンピックといえば、ベルリンでなくロサンゼルスに郷愁を感ずるゆえんである》(田畑政治『スポーツとともに半世紀』静岡県体育協会)
田畑によれば、ヒトラーはオリンピックの成功のため、ユダヤ人の才能もあますことなく活用し、オリンピックの選手村の村長にもユダヤ人を起用したほどだった。ただし、この村長はオリンピック閉幕後、村が解散すると同時に自殺したという。その理由は、利用価値がなくなれば再び強い迫害を受けるだろうと恐れてのことだと、田畑は帰途、フランス・マルセイユの新聞で知った。
レニ・リーフェンシュタール(1902〜2003)……ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」(「民族の祭典」と「美の祭典」の2部構成)を手がけたドイツの映画監督。
第二次世界大戦後、リーフェンシュタールはナチスの協力者との疑惑をかけられ、有罪にこそならなかったものの、ドイツの映画界からは事実上追放される。それでも彼女は屈せず、71歳にしてアフリカの奥地に住む一部族を撮った写真集『ヌバ』を発表、さらには70代でダイビングを習得して、水中を撮った神秘的な写真集や映像作品も手がけるなど、101歳で天寿をまっとうするまで旺盛な活動を見せた。
ジェシー・オーエンス(1913〜80)……アメリカの陸上競技選手。劇中でも言及されていたように、ベルリンオリンピックで100メートル、200メートル、400メートルリレー、走り幅跳びと4種目で金メダルを獲得した。劇中ではまた、ヒトラーは白人主義者だったためか、黒人であるオーエンスと握手をしなかったとのエピソードも紹介されていたが、これについてはその後の研究で、誤りだとほぼあきらかになっている。たしかにヒトラーがオーエンスを貴賓席に招いて握手しなかったのは事実だが、それは、オリンピック初日に優勝したドイツの陸上選手らを貴賓席に招いて祝福したところ、IOC会長のラトゥールから「優勝者を祝福するならするですべての優勝者に公平にしてほしい」と釘を刺されたためだった。ヒトラーはこれを受け、2日目以降は、公平に「誰も招かない」ことにし、オーエンスばかりでなく、すべての選手についてもそうしたのである(沢木耕太郎『オリンピア ナチスの森で』集英社e文庫)。なお、オーエンスについては伝記映画「栄光のランナー/1936ベルリン」が2016年に公開されている。
ベルリンオリンピックの放送……ベルリンオリンピックに際して、ナチス政権は莫大な国費を注ぎ込んで内外の放送に対応した。ヨーロッパ向け有線中継20回線、海外向け無線中継10回線の合計30の同時放送を行なったほか、固定録音機42個、移動録音機20個、合計62の録音装置も用意され、録音放送も可能な態勢がとられた(竹山昭子『ラジオの時代──ラジオは茶の間の主役だった』世界思想社)。日本に向けての実況中継も、一部は深夜(日本時間の午前0時まで)に生放送されたが、遅い時間のため大部分が録音され、日本時間の翌朝6時半から放送された(橋本一夫『日本スポーツ放送史』大修館書店)。
マラソン中継では、メインスタンド最上段に設けられた放送席で、日本(実況担当は山本照アナウンサー。劇中では箱根駅伝経験者の和田正人が演じている)とアルゼンチンが隣り合わせとなった。優勝候補のザバラを擁するアルゼンチンのアナウンサーはスタート前から彼の名を絶叫し、レース中も熱烈な声援を送った。しかしザバラは暑さのなかでのハイペースがたたって、後半の31キロで脱落。同国のアナウンサーは、その報を耳にした途端、「ザバラの大馬鹿野郎!」と叫ぶと、放送の打ち切りを伝え、さっさとマイクを片づけて退席してしまったという(『日本スポーツ放送史』)。
「いだてん」ではまた、テレビでも初めてオリンピック中継が行なわれたが、まったく不鮮明だったというふうに描かれていた。田畑政治の回顧録にも、《ベルリンではテレビの試験放送も行われた。オリンピック村の談話室に映したが、まだ画面がチラついたり曲ったりして、非常にみにくかったのを覚えている》との記述がある(『スポーツとともに半世紀』)。
孫基禎(ソン・キジョン/1912〜2002)……日本の統治下にあった朝鮮半島出身のマラソン選手。戦前から戦後を通じてマラソンの名門として知られたソウルの養正高等普通学校に在学中に頭角を現し、1935年の明治神宮競技大会では世界新記録を出して優勝している。ベルリンオリンピックには、南昇竜(ナム・スンニョン)と塩包玉男とともに日本代表として出場。優勝して、3位の南とともに表彰台に立ったものの、ドラマで言及されていたとおり、表彰式で日本の国旗が掲揚されることを彼らは知らなかった。このとき、二人は頭に月桂冠を載せた二人がうつむいた写真が残っている。これについて日本の新聞では、彼らが感激にむせび泣いたと伝えられた。だが、のちに孫は自伝で、夢が実現したにもかかわらず、頂上に立った実感は歓喜ばかりではなかったとして、《身を引き裂かれるような苦しみに耐えた貧しい頃の自身に対する憐憫、ベルリンに来てからでさえも限りない侮辱を甘受しなければならなかった亡国民の悲哀……。せき上げる悲しみと激情に私はジッと頭を垂れ、涙を噛みしめた》と、その複雑な感情を吐露している(『ああ月桂冠に涙──孫基禎自伝』講談社)。
表彰式での孫の写真は世界に電送され、ソウルの有力紙「東亜日報」もいったんはそのまま使ったが、遅い版からは彼の胸の日の丸を塗りつぶして掲載した。この事実を知った日本側の統治機関・朝鮮総督府は激怒し、塗りつぶしにかかわった記者ら関係者は拘束され、同紙は発行停止処分となる。処分解除後も社長以下、事件にかかわったとされる者たちが新聞社を追われる事態へと発展した。
戦後、韓国が独立すると、孫は同国の陸上競技連盟、オリンピック委員会などで要職を務め、1988年のソウルオリンピック招致にも尽力する。ソウル大会の開会式では、聖火のトーチを高々と掲げてスタジアムに入り、最終ランナーに手渡すランナー役を担った。ノンフィクション作家の後藤正治が晩年の孫を取材した際、彼にベルリンオリンピックを振り返っていまどう思うかと訊ねると、しばし沈黙ののち、《このことを話すのはもうよしましょう。あの時代にあったこと、私がいっても、あなたが聞いても、よくない。それは、あの時代にその場にいないとわからんことだから……》との答えが返ってきたという(後藤正治『マラソンランナー』文春新書)。
「いだてん」での孫基禎の金メダルのエピソードは、最近の日韓の外交関係の悪化や、あるいは来年の東京オリンピックへの旭日旗の持ち込みをめぐる議論を思えば、じつにタイムリーだった。ただ、孫の金メダルをめぐる反応は、実際にはここに紹介したようにもっと苛烈なものだったのに対し、ドラマでは表現がソフトに抑えられていたことは否めまい(もちろん描かれないよりははるかにましだが)。このあたり、近現代史をドラマに落とし込むことの難しさをあらためて感じさせる。(近藤正高)
※「いだてん」第35回「民族の祭典」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:井上剛
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)