【週刊誌からみた「ニッポンの後退」】


 われわれ団塊の世代が3人集まると「認知症」の話である。末期のすい臓がんを奇跡的に克服した友人も「認知症だけにはなりたくない」と呟く。


 時代を先取りした有吉佐和子が認知症老人の壮絶な生態を赤裸々に描いた「恍惚の人」(新潮社)を発表したのは1972年であった。今は高齢者の5人に1人が認知症患者といわれる時代であるが、治療法はまだない。


 私はほぼ認知症である。9月の約束を8月のカレンダーを見ながら決めてしまう。クレジットカードの暗証番号が思い出せない。方向音痴が年々激しくなり、待ち合わせの店にたどり着けない。以前、何度も見た映画を見直しても、まったく筋を思い出せずに最後まで見てしまう。さっき食べた夕食の献立を忘れる。亡くなった友人の名前が出てこないなどなど。


 私より少し上の歌手、橋幸夫(82)が亡くなった。


 中程度の認知症だと事務所が公表したのは今年の5月だった。


「実際には2020年ごろから日付がわからないなどの症状が出始め、22年の検査では海馬の萎縮も見られて、軽度のアルツハイマー型認知症と診断されていた。

そこから次第に症状は進んでいったようです」と、週刊文春(6月5日号)が事務所関係者の話を伝えた。


 橋は17歳のデビュー曲「潮来笠」が120万枚と大ヒットして、「高校三年生」の舟木一夫、「君だけを」の西郷輝彦とともに「御三家」といわれた。


 吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」もミリオンセラーになり、日本レコード大賞を受賞。「霧氷」で2度目のレコ大を受賞した、団塊世代にとって忘れられない“青春を共にした”大歌手である。


 文春によれば、母親も橋と同じ82歳で認知症を発症していた。認知症の初期症状である「誰かが私のものを盗んだ」という被害妄想から始まり、幻視、所かまわずの排泄。


 橋がその様子を赤裸々につづった「お母さんは宇宙人」(現在は角川文庫)を1989年に出版すると、大きな反響を呼んだ。


 橋はステージで歌詞を間違えても飛ばしても全然慌てず、「あ? わかんなくなっちゃったな」といって、客を笑わせることができた。認知症とわかっても橋の「死ぬまで歌う」という信念が揺らぐことはなかった。


 しかし、9月1日、橋の所属する「夢グループ」の石田重廣社長が、6月のステージ後に入院したことを公表し、橋の容体は「僕の顔も忘れる。言葉も忘れる。ずっと寝てます」と語った。

そして、橋はついに帰らぬ人となった。いずれ私にも、そんな日がくるのだろうか。


 子どもが一番悲しいのは、認知症が進んだ母親から、「どちらさまでしたか?」と聞かれることだという。


 私にも似た経験がある。「劇団四季」の浅利慶太さん(享年85)とは、私が若い頃から親しくお付き合いさせてもらった。彼に劇団の女性と見合いさせられたこともあった。彼に認知症の症状が出て「四季」を離れ、参宮橋の個人事務所に移ったのは2015年のことだった。


 しばらく経って浅利さんの秘書から「舞台稽古を見に来ませんか」という電話があった。勇躍して出かけた。稽古中は少し離れたところで見ていて、浅利さんがそこを離れて洗面所に行く後をついていった。入り口で待っていた。浅利さんが出てきた。

彼は立っている私の顔をジーッと見つめて、「どちらさまでしたか?」と聞いた。


 私は彼の後を追うことなく、そこを出た。寂しかった、悲しかった。


 私も息子や娘に、「どちらさま?」と聞く日がもうすぐ来るのだろう。怖い! (文中一部敬称略)


(元木昌彦/「週刊現代」「フライデー」元編集長)


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