【1975 ~そのときニューミュージックが生まれた】


 1975年のテレビ界②


  ◇  ◇  ◇


 今回も特別編「1975年のテレビ界」。前回は、この年のテレビ業界を代表する「MVP」は萩本欽一だったという話を書いた。


 では東京発テレビのMVPを欽ちゃんだとすると、関西のMVPは誰か。東大阪出身の私の記憶の中で、この年、燦然と輝いているのは桂三枝(現・文枝)だ。


 吉本興業のサイト内にある経歴には、74年の欄に「『オヨヨ! グー!』大流行」、75年には「第4回上方お笑い大賞金賞」と書かれている。「オヨヨ」「グー」はとてもリアルに覚えている。また上方お笑い大賞の金賞に輝いたのも、当時の彼の勢いを象徴している。ちなみに大賞は海原お浜・小浜だった(なお小浜は海原やすよ・ともこの祖母)。


 さて、この年の三枝は、とにかくよくテレビに出ていた。ただ、彼自身のネタで大笑いした経験はあまりなく、むしろ若手の落語家や芸人を取り回して、笑いを引き出す立場にいた。


 その意味では「東のMVP」萩本欽一にも通じるものがある。


 日曜の夕方に放送されるMBS「ヤングおー!おー!」で、若手落語家ユニット「ザ・パンダ」の月亭八方桂文珍、桂きん枝(現・小文枝)、林家小染らをイジりまくって笑いを取っている姿が懐かしい。


 そして、そんなイジられ役の中から、才能を開花させ、大きく羽ばたいていったのが、ご存じ明石家さんまである。


 この原稿のために調べたら桂三枝、生まれは1943年で実は戦前。

もちろん団塊の世代よりも年上だ。逆に明石家さんまは55年生まれ、何と12歳差。この違いは大きい。だから当時32歳の三枝が、戦後生まれ、20代の若手をイジる立場になったのも、当然といえば当然のことだったのだ。


 そんな年齢のせいだろうか。桂三枝には音楽のイメージがない。では当時、ニューミュージック的な存在は、誰だったのか。それはもう笑福亭鶴瓶(51年生まれ)に尽きる。自身のラジオ番組MBS「ヤングタウン」(月曜日)で、フォークの曲を積極的にかけていたことが思い出される。さらに、のちの明石家さんまからは、矢沢永吉やサザンオールスターズなど、ロックのにおいがした。


 新しい音楽を漂わせた新しい才能が、虎視眈々と三枝の座を狙っている。そんなことを知ってか知らずか「オヨヨ」「グー」などの奇声を発しながら、西のテレビ界のMVPとして君臨している32歳。

それが「1975年の桂三枝」だった。


■6.25沢田研二「人間77年喜寿リー祭り」 スージー鈴木氏と「勝手にお祝い動画」配信中!
 https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/info/373430


■好評連載「沢田研二の音楽1980-1985」をまとめた「沢田研二の音楽を聴く1980-1985」(日刊現代/講談社)絶賛発売中!


▽スージー鈴木(音楽評論家) 1966年、大阪府東大阪市生まれ。早大政治経済学部卒業後、博報堂に入社。在職中から音楽評論家として活動し、10冊超の著作を発表。2021年、55歳になったのを機に同社を早期退職。主な著書に「中森明菜の音楽1982-1991」「〈きゅんメロ〉の法則」「サブカルサラリーマンになろう」など。半自伝的小説「弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる」も話題に。ラジオDJとしても活躍中。


編集部おすすめ